那智の火祭り ィイ・ヤシロ・チ③

熊野は奥が深い。

初めて熊野に出向いたとき、わたくしはその山川の放つ雄渾の波動に圧倒された。そして、ちっぽけな人間であることの非力さを胸に突き付けられながら、同時に、女神の懐に抱かれた安堵感も得た。こんな聖処は、わたくしにとってそれまで無かった。

熊野三山のうち、わたくしが最も癒やされるのは、那智大社。優美な姿の瀧から降り注ぐ霧のように細かな水しぶきも、足の裏から天に向かってせり上がってくる気の勢いも、超弩級のご神気浴。

此処で頭に浮かぶキーワードは、大地母神。熊野がカムノ(神野)由来とする説や、祭神オオ「ナ」ム「チ」を大いなる穴を持つ貴い存在とあらわすことも、水神を象徴する瀧を祀る飛瀧神社には、命の源としか表せない女神のご神気が充満している。

初めての参拝からこれまでに七度の熊野詣をしてきた。そのたびに、強い磁場が日常の澱というような、ケガレ(気枯れ)を躰から薙払い、体内のあちこちの箇所で滞っていた気の巡りに、心地よい刺激する癒やしを与えてくれる。

数多の生物を育む熊野の杜の中で、デコボコした石段や古道を注意深く自分の足で歩くことが、全身を生命保持モードにしっかりと切替える効用はかなり大きい。それは単純に森林浴のリフレッシュと表現しても大きくは違わないのだけれど、均質なバリアフリーの街中に暮らす身には、普段の生活行動では閉じている系が強制起動され、通じていなかった箇所に十分な気血を通すのがわかるのだ。

同じ活動量を街中ですれば、ただただ疲れ切ってしまうはずの躰に、爽やかな軽い疲れと少しの筋肉痛を残すだけのダメージで済ませ、活力まで与える。そのうえ、雑事のストレスやインプット超過で満杯気味の脳内までもさっぱりとクリーンアッされるようだ。賦活力がハンパないのだ、熊野は。

そういえば、神社の祭りのなかには、神さまのデトックスイベントとも見なせるものが有る。以前、この熊野でわたくしが目撃した、毎年七月に催行される、那智大社の火祭り・扇祭もその一つだと思う。

数年前、何の予備知識もなく、昼間にお祭りを観覧できる、と気軽に参加したツアー。が、結果は、那智のもつ再生のエネルギーの底力に改めて魅了されることとなったのである。

祭当日の午前中、結構な雨の降るなか神様の乗り物となる特殊な扇神輿が拝殿前に準備されていた。扇は呪具であり、外へ向けて禍を遠くに払い、うちに向けて福を招きあおぐ。その扇の神輿を12本、神霊の依代に仕立て、1年の各月を表わす12柱の神様に降臨頂いた後、午後には高台の那智大社を出発し、那智の滝を祀る飛瀧(ひろう)神社に運び、水の清めと生命力による再生の儀式を行うのである。

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不思議なことに扇神輿が那智大社を出発する時刻になると、雨はぱたりと止んで青空まで見えた。清めの雨に洗われた飛瀧神社の鳥居から滝元までの石段を、白装束の氏子が担ぐ12本の大松明が、神火で参道や神事の全空間を清める。其処を火の粉で清められた扇神輿が堂々と進むのである。扇神輿に降臨したご神霊は儀式と滝の水でさらに清められ、再生する。まさに火と水、カミの清めと再生の祀りである。

勝手のわからないにわか参列のわたくしは、配られた式次第を見ながら、どこに陣取ればよいのだろうと思案していると、急に右目がチクンと痛んだ。アッとその場に偶然腰を落ち着けた具合になった。足元も覚束ないので、そのままそこからの臨場となった。やがて大松明に聖火からうつされた火が点され、みるみる間にパチパチと燃える大きな炎となり、火祭独特の掛け声や人々の興奮が混ざり合って、祭のエネルギーが膨らんでいく様を見ることになった。偶然のベストポイントだったのだ。そして、その光景の非日常な迫力に驚いて、わたくしは、ただただ成り行きを見て、時折ふと思いついたように写真を撮っていった。

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残念ながら、ツアー客の悲しさでまだまだ続くご神事の最後まではいられず、集合時間に泣く泣くバスに戻るしかなかった。が、それでも清めと再生のまじないの力は、わたくしの心身にも何かしら働いたようだ。再生し、光を再び強くする神霊の御力に触れた人の子は、大地の生命力の力強さとそれに共振する自らの命の振動を体験できるのかもしれない。人々の祭りへの熱は、そこに惹きつけられて生じるのだろう。

どのようなものであれ、今現存する祭、神と人の子の儀式には、両者の間の何か特別に大切な約束や決まり事が隠れているような気がする。この神事も独特な神輿の扇の数や、使われている竹の釘の本数など、祭にかかわるあらゆる数にも理由があるのは、その所以だろう。

そして、年に一度、その約束をしっかりと守る人の子の存在は神には切実なものであり、人の子にとっても自らの命の源泉が枯れることなく湧き出で続けるように願う大事な祈りなのだと、立ち会えたわたくしは確信する。

自然に対して誠実に生きること。それこそが土地と人の結びつきを補強し、水や火などの災いから人間のか弱い身を守る最良の方法だ。年中多雨と地震が発生するこの国に伝わる、人の子が此処で生きる知恵と術でもあった、と改めて思う。

先日の土石流の被害を見るまでもなく、大地をむやみにむさぼり、杜の力を人の手でそぐような所業は、悲惨な災禍を招くと肝に銘じなくてはならない。古からの神事はそう伝えてくれている。

水と火の祭の日がまた近づいている。人の子が、神との大切な約束を忘れてしまわぬように。





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