闇、いと近きもの #1
闇。
闇は光が強くなれば濃くなり、光が薄くなればまた濃くなる。
闇とはいずこにでもあり、不滅であり、消えざりしものである。
人よ、心せよ。闇はいと暗く。いと黒く。そしていと優しい。
神々を知るものは心せよ。闇とは、かつて人に最も親しく、近しい神であった。
すべての者どもよ、心せよ。闇は遠ざければ近付き、近付けばまた近付くと。
すべての者どもよ。心に棲まう闇を飼い慣らすべし。
(かつて闇を知り、闇を語ったとして処断された思想家の書物より)
***
ヴァレチモア大陸の中央部。国境をも知れぬ荒野の一点に、その赤々とした火はあった。火を睨むのは四つの目。二つは黄金色にくすぶってその向こうを見据え、二つは黒く淀み、底知れぬ哀しみを湛えていた。
「では、貴様はあくまでも敵を」
「討ちます。討たねば、ならない」
哀しみを湛えた眼の主は、十二、三頃の少年であった。よくよく見れば薄明かりに照らされている肌は汚れ、少なからぬ生傷を刻まれていた。この少年がいかなる目に遭ったのか、いかなる道程で現在に至ったのか、荒野の環境を思えば、想像するに難くはないだろう。
「……難行になるぞ。この荒野に潜む賊、そのすべてを潰すと言うようなものだからな」
「それでも、です」
そうか、と黄金色の目の持ち主は短く答えた。彼はその間に己の許容範囲について考え、直後放棄した。人情で言えば、少年に協力したいのはやまやまだ。だが全面協力など、少年の望むものではないだろう。彼にできることがあるとすれば、少年の鍛錬に協力することと――
「伝えておくぞ、少年。仮に生のすべてを敵の殲滅に注ぐのであれば」
「あれば」
「闇に呑まれぬよう、心せよ。細心の注意を払え」
彼の行くであろう道の先。屍山血河の果てに待ち受ける暗闇から逃れられるよう、忠告することだった。
「……心します。行き倒れのおれを助けて下すった、あなたのためにも」
「それでいい」
黄金色の目の持ち主――すなわちラーカンツのガノンは、少年に向かって重くうなずいた。彼は心中にて、荒野を行く己の旅路を思い返した。闇との邂逅があり、戦があり、時には自身さえもが闇に誘惑されることもあった。しかし彼の心には、常に戦神があった。戦神を思い、祈りを捧げ、心から尊ぶ。その信念こそが、彼が闇の魔の手に呑まれなかった、理由の一つでもあった。
「闇は、血を好む。争いを好む。復讐心など、格好の餌だ」
「はい」
暗い目をした少年に、ガノンはとつとつと語り続ける。それは、彼が知る限りの闇の提示だった。闇の導師と戦った過去や、闇そのものを直視しかけた記憶が、彼をそうさせていた。少年の行く道の果てが、いと暗く、強大な闇であってはならない。明るいものではないにしても、未来あるものにしなくてはならない。たとえ余計な口出しであろうが、出会ったからには言い添えておきたかった。
「血に呑まれるな。己を保て。心のうちに、一本の芯を持て」
「芯なら、ここに」
ガノンの言葉に対して、少年は身体に刻まれた傷、そのうちの一つを指で示した。ガノンは思わず、息を呑んだ。それは頬に、尋常ならざる深さで刻まれたものだった。無論、未だに瘉えてもいないし、塞がってもいない。見るも生々しく、痛々しい傷だった。
「そいつは」
「これだけは、おれが、おれ自身で刻みました。忘れないために」
「そうか」
ガノンは、言葉も短く焚き火に木をくべた。夜はとうに更け、本来であれば眠りについても良い時間であった。しかし。
「傷が疼くか」
「ええ、痛みます。今はあなたのおかげで気を張れていますが、ひとたび気を抜けば、息もつかぬ間に倒れるでしょう」
「おれは構わんぞ」
「いえ。うなされるのも、嫌ですから」
「そうか」
二人は結局、朝まで言葉を交わしあった。ガノンは少年の傷が落ち着く頃合いを待って、いくつかの武技を授けた。そのほとんどは基礎基本、体力の鍛錬であったが、ガノンはそれらこそが救いになると確信していた。土台なくして、技は成立しない。戦神の教えにも、そう刻まれていた。結果的に二人は、百日あまりの旅路をともに過ごした。
「それでは、無事に本懐を遂げるのだぞ、ルアーキー」
「ガノン様こそ、旅路に戦神のご加護があらんことを」
訪れた別れの日、二人は互いの名を呼び、無事を誓い合った。ガノンの旅路において、これほどまでに道をともにした相手は初めてだった。それ故に彼の言葉は真摯で、心の底からの願いであった。
ああ、しかし。だからこそ。運命の神は願いをあざ笑うのであろうか。二人の宿運が巡り合うのは、この出会いより幾年かのち、ガノンが【大傭兵】、【赤髪の牙犬】と呼ばれ出した頃合いであった。
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