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闇、いと近きもの #2

<#1>

 炎に赤々と照らされた闇の中、美しき女性にょしょうが手を離そうとする。まだうら若き少年は、それを掴み直そうと手繰り寄せる。そっと振り向く。しかし女性は、首を横に振った。すでに幾人かの賊が、残り十数歩にまで迫っていた。

『ねえさん、なぜ』
『逃げて、逃げるのよ、ルア。あなただけなら、生き延びられる』

 少年の訴えに、『ねえさん』は首を横に振る。少年には、彼女の考えが理解できなかった。それでも少年は足を止めない。止められない。必然、二人の距離は少しずつ。そして、見る。見てしまう。賊の群れに呑まれる、姉の姿を。彼は叫んだ。

『ねえさん!』
『あたしのことは忘れなさい! あなたは、無事に――』
『ねえさん! ねえさん! ね……』

 彼女に向けて伸ばしたはずの腕は、空しく『ねえさん』の手をすり抜けていく。それもそのはず、彼が伸ばしていたその腕の先は。

「……夢、か」

 天井以外にはなにもない、ただの虚空だったのだから。ただただあの日より太くなり、傷が増え、逞しくなった右腕だけがそこにあった。

「何年ぶりだろうな……」

 思いを巡らしながら、ルアーキーは身を起こした。己で刻み込んだ、あの日の傷がにわかに疼く。隠れ家じみた狭い一室にある寝台は非常に固く、寝心地が悪い。そんなだからあの日の夢を見た。と、結論を付けてしまいたかったのだが。

「寝心地は理由にならないな」

 彼は、己の慣れを信じることを選んだ。半ば貧民窟と化している街の一角、もはや汚濁極まりなかったこの部屋を整備してから、早一年は経っている。今更過去にうなされるのは、理屈が通らなかった。

「……」

 そんな朝を迎えたからか。ルアーキーの身支度は酷く捗らなかった。街に住む貧民たちを手助けし、ともに金を稼ぐ。そのための準備程度に、半刻を費やしてしまった。

「起きろー、ルア兄」
「すまない。今行く」

 部屋の外から、彼を呼ぶ声。この貧民窟に住む、少年たちのものだ。彼はこれから少年たちとともに塵芥の集積場――有り体に言えば廃材置き場――へと向かう。そこで少しでも金目になりそうなものを拾い、商人に売り払って飯の足しにするのだ。はっきり言ってしまえば、せいぜいポメダ銅貨数枚程度の稼ぎにしかならない。だが少年たちにとっては、明日へ生き延びるための貴重な食い扶持だった。

「ルア兄、遅いぞ」
「寝坊をしてしまってね。起こしてくれてありがとう」

 少年たちと語りながら、彼は貧民窟を行く。この街には、淀んだ瞳が多かった。明日を見失い、ここでただただ生きるために生きている。そんな人間が、多く住んでいた。たまに活気があるとすれば。

「オラァ! 俺はお前に今日のメシ代賭けてんだ! 気張れ!」
「行けーっ! 俺の明日はお前に掛かってるんだ!」

 路地裏で行われる違法賭博――食肉用のダハ鶏に切れ味の悪いナイフを括り付け、殺し合わせる遊びだ――によって生まれる、悲喜の入り混じった叫び声だった。

「……」
「相変わらず、慣れないのか。ルア兄」
「ん? あ、ああ。済まない」
「仕方ないよ。兄ちゃん、『流れ』だもんな」

 そんな様子を憎々しげに見ているルアーキーに、少年たちが声をかける。話に流されるままに彼は追及をかわすが、その根に宿るのは『慣れない』程度では収まらない想いだった。思わず溢れ、小さく吐き出す。

「もったいない、な」
「ん?」
「いや、なんでもない。行こう」
「変なの」

 鋭く聞きとがめた少年の、見上げて来る視線をそらして。彼は廃材置き場へと足を向けた。

***

「いやあ、今日もよく取れた」
「ルア兄が来てからは、大荷物も取れるからな! 助かるよ!」
「そう言ってくれるのなら、光栄だよ」

 日が中天半ばに差し掛かる頃。ルアーキーたちはいくつかの袋を手に帰途についていた。中でもルアーキーは圧巻だ。背に大袋を一つ、両のかいなに大袋を四つ。いともたやすく己の荷としていた。無論中身は、廃材の中にあった金目である。先も述べた通り、これを売りさばいて明日の糧を得るのが、少年たちの稼業であった。

「こんにちは」
「おお、兄さん。今日も精が出るねえ」
「精を出さなきゃ、食い扶持がないからな。今日も見繕いを頼む」
「ああ、わかった」

 市を成す街の大通りから一歩外れたところで、ルアーキーは顔馴染の商人と交渉に入る。彼ら貧民窟の人間は、大通りに入ればたちまち巡警に叩き出される運命にある。彼らと街は、繋がっているようで分け隔てられていた。

「ふむふむ……」
「頼むぞ」
「あ、ああ。わかってるよ」

 金目に目を光らせる商人に、ルアーキーはいかめしく声をかける。彼がこうして少年たちの手伝いを始めた頃、商人は少年を嘲って不当に安く買い叩いていた。これを言い咎め、真っ当な取引に改めたのもまた、ルアーキーの功績だった。それ以来、彼らと商人は比較的良好な関係にあった。しばらくして、商人がゆっくりと口を開いた。

「よし。今日はポメダ銅貨二十枚だ」
「わかった」
「おっちゃん、ありがとう!」
「これでもまだ三十路みそじだぞ?」
「十分おっちゃんだ!」

 商人と少年たちが小気味よいやり取りを交わす中、ルアーキーは黙って金を引き取る。この中の数枚を運搬料として貰い受け、残りを少年たちが平等に割る。結局のところ、稼ぎはそうそう大きくならない。だが少年たちにとって、彼が来たのは大きな光だった。かつては銅貨一枚すら受け取れなかった者がいたのが、今や皆に一枚は配れるようになったのだから。
 ともあれ、ルアーキーは分け前を回収して商人の元を立ち去ろうとする。ところがこの日に限って、商人が彼を呼び止めた。

「兄さん、ちょい待ち」
「どうした。用件は終わっただろう?」
「いいからいいから。ああ、ちょっと兄さんを借りるぜ」
「わかった! ルア兄、また明日!」

 商人が巧みにルアーキーと少年たちを切り離し、少年たちは足早に貧民街へと戻っていく。その背中がが見えなくなったところで、ようやく商人は口を開いた。

「兄さん、用心棒気取りなら気をつけな。最近領主様が、貧民街の一掃を目論んでいるらしい」

 その言葉を聞いた瞬間。ルアーキーの瞳には本人でさえ気付かぬくらいものが宿っていた。

#3へ続く

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