やり直し論から論は飛ぶ

夜更かしからの短時間睡眠。心身に来ることは分かっていたが、久方ぶりにやってしもうた。だが、これで気に病む必要はない。明日からやり直せばええんやからな。

やり直し。

人生そのもののやり直しは不可能やけど、スタートの切り直し自体はいつでもできる。これが昨今の流れとなりつつある。

ただし犯罪だけは別や。無用な正義感と内心差別意識が絶妙に組み合わさった、法律には一切保証されていない私刑が立ちはだかるせいでんな。ムショ行って償っても、自分の周りに来るんじゃない、という人間はどこまでも多いのや。

いかん、話が逸れよった。いや、自分で補足したからやけども。とにかく、話を戻すで。やり直しは、いつでもできる。では、邪魔者は?

全か無か、という思考。
見栄とかいうクッソ安いプライド。

この2つが、二大勢力や。コイツラは、注ぎ込んだ時間に比例して跳ね上がる、と考えた方が自然な連中や。なぜか。

時間が無になり、成果が消える。と、考えちまうからや。少しだけ思考実験するけど、某医大の点数切り下げ事案。もしもやけど。

時間をかけて育てた女医に、結婚妊娠で退職される事案に見舞われ続けた医師』が思い付いたとしたら?

無論、全か無か思考の根っこはもっと深い(認知の歪みやしな)。だが、こういう無力感を学習したとしたら。切り下げ事案の説明が可能になる。

『そうだ。せっかく育てても馬の骨のせいでやめていくのなら。そもそも育てなければいい』。うーん、見事な反転。見事な極論。だが、気持ちは分かるぞ。同意は無理やけどな。


さて、話を戻そう。世の中、来た道を戻る。一旦最初からやり直す。そういった行為は『難しい』と思うようになっている。なぜか。簡単や。そうできなかった人間。時間や金や学力を最大限に特定の事項一つにブッ込んだ人間が。日本国民の上の方に立っとるからや。

上の方がどんなに遠眼鏡をかざしたところで、下々の暮らしや思いは見えへん。そして周りはよう見える。後は分かるな?

つまるところ我々は、『難しいと思わされている』のだ。実際難しくしてあるのも事実やけど、それは上の人間に下々が見えにくいからで。結果として『難しかった事実がうず高く積もった、幻想の壁』がそこに建立されてしまってるんや。じゃあ、これを打ち砕くには?

やってみるしかねえよな。ようやく時代の潮流でも、そういう行動が始まってきよった。せやけど。まだ突き抜けた連中しか、壁を越えちょらん。俺もまだまだ心が折れちょる。読者の皆様はいかがであろうか?

おわれ

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