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濁り

 それは露に光る冬の景色や、家に迷い込んだトンボの話。
 私の目の前に広がる世界の話であった。



 きっかけは、小学生の時。地方の月刊同人誌で小説を連載しているご老人、吉岡さんからの誘いだった。吉岡さんは、私の母が経営している喫茶店の常連客であったが、文章を書くことが好きだった私に「地元の同人誌用に何か書いてくれないか?」と声をかけてきたのだ。実際には母が全て話を進めていたので、全て母から聞いた話ではあるが。どうやら同人誌に乗せてくれるだけでなく、そのための掲載料も吉岡さんが負担してくれるらしかった。喫茶店の売り上げも芳しくはなく、実家は貧乏であったが、「掲載料まで出していただけるなら」と、母が話を進めた。



 私は、お金を負担していただくありがたみなどさほど考えず、のびのびと好きなものばかりを書いていた。常に空想の世界にいるような子供だったため、私の目に映る世界を端から言葉に変えていった。私の作り出した物語の人気は、そこそこ高かったように思う。もちろん、大人ばかりの同人誌の中に小学生が混ざっているのだから、可愛がられていた面もあるだろう。しかし、私には編集者からの一言一言が大変嬉しかった。
 「舌を巻きます」。ある日、当時の編集者が同人誌のあとがきで私に向けた言葉だった。当時の私に「舌を巻く」という言葉はまだ難しく、母に意味を説明してもらった。今でもその時のことを鮮明に覚えている。その後私は何度もその後書きを読んだ。「舌を巻く。」声に出してみた。この評価が、どこか私の心のどこか大切な部分に住み着き始めている気がした。
 ずっと物語を書き続けたい。初めてできた夢だった。


 それからは、毎月の締め切りまでに、様々な物語を書き続けた。一回の締め切りで二作を完成させることもあったし、短編の物語や詩を、ただひたすら書き続けた。見えている世界そのものが私の作品であった。

 私がよく書いていたものは、「童話詩」と呼ばれていた。日々私が見ている風景から浮かんだ童話を、詩として書いていたのである。

 最も印象に残っている詩が、一つある。幼い頃の自分の、温かな感性が感じられる詩。その詩の中で、私は朝日に呼びかけていた。冬のこと。顔を出さない朝日。家にある東向きの窓から外を眺め、朝日の目覚めをずっとずっと待っていた。



 しかしいつからだろうか、私は何も書かなくなっていた。書けなかった。私を囲む風景は、決して変わってはいない。色彩も、温度も、香りも、きっと変わらずにそこにあったはずだ。しかし、それまでとは違う何かが、確かに私の目に映っていた。


 他人の悪意に触れた。

 暴言を吐くようになった。

 人を守るより、自分を守っていたかった。


 思春期にはありがちな些細な変化。

 しかし、幼く純粋な物書きには、苦であり、重すぎる変化でもあった。

 今までと同じはずの景色は私の目を通すとどこか黒ずみ、澱む。もう何も思い浮かばなかった。苦しかったような気もするが、そのような日々の中で、書きたいという気持ちそのものが失われていったようにも思う。しかし、締め切りはやってきてしまうのだ。やがて私の物語は義務に変わっていた。それは心を彩る温かな世界でなく、ただの空虚な想像でしかなかった。



 ついには、何かを書きたいという気持ちは完全に私の中から消え去ってしまっていた。何ヶ月間か、忙しさを理由に執筆を断った。しかし吉岡さんは毎月やってくるので、その申し訳なさから、一度母親が私の代わりに詩を書くことにした。母も文章を作るのが得意な質で、すらすらと、それでいて小学生の拙さに合った一編の詩を書き上げてくれた。母が書いた詩は、きっと上出来なものであったと思う。しかし、「これでいい?」と、それを見せられたときの失望感を私は今でも覚えている。大人の眼に写る世界を、間接的に見た気がした。そして、歳を重ねた今、あの時に感じた失望感は決して空想のものでないことを感じている。



 それからは、一度たりとも同人誌に向けて物語を書いたことはない。
 二度と書きたくもなかった。吉岡さんも、もう私に物語を催促しなかった。

 幼い物書きの目は何を捉えていたのだろうか。心は曇り、口は濁り、重く沈んだ感情を吐き出す術を知らなかった。私の目に確かに写っていた鮮やかで暖かな世界をひたすらに書いていた私にとって、それは一つの終わりを意味していた。









 ・・・嫌なことを思い出したな、と思った。

 あの日あの時の幸せな世界。実在した世界。思い出のように脳裏に描くことはできるが、同じ世界を見ることはきっと2度とないのだろう。これが成長だ、と言われれば、確かにそうだと言わざるを得ない。しかし、大切な世界を守り抜く術が、きっと何処かにあったのではないかと悔やまずにはいられない。きっと物語を書き続ける限り、私はこの記憶と戦うのだろう。
 しかし少なくとも、あの日見た鮮やかな景色は今も記憶に残り続けている。それでいいのだ。十分だ。そうして、あの日の私が、今日の私が大人の眼に失望したことも、覚えておかなければならないのだ。





 私の書いた世界は、私を失望させるだろうか。

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