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幻想生物2.水妖/水辺の証人(下)

――ねえ、本当にそれでいいの?――
 幼い頃に起こったある事件から、男性恐怖症になってしまった少女・加与子。
 学校に飾られたいわくつきの絵に魅入られた瞬間から、堅く閉ざされていた心の扉が開き始める……

 架空の女子校を舞台にした,オムニバス形式の短編連作第二弾です.
 1編1万~2万文字程度を目安に区切っていく予定.
 よろしければお付き合いを.

◆本編

「加与、加与ってば」
 呼ばれて顔を上げると、目の前に小夜の顔があった。彼女のまとうあの独特の香りが鼻をくすぐると、急に現実へ引き戻されるような感覚に襲われた加与子だった。
「次、音楽だよ。行こう」
「あ……うん」
 慌てて準備をし、小夜の後に続いて教室を出た。蒸し暑い教室から廊下へ出ると、ひんやりとした空気が加与子の頬を撫でる。窓の外へ目をやると、外は土砂降りだ。叩きつける雨で景色は奇妙に歪んで見えた。
「大丈夫?」
 外の景色を横目で見ながらぼんやりと歩いていると、唐突に小夜が言った。とっさにその意味が飲み込めず、加与子はきょとんとして傍らの友人に向き直った。
「え?」
「なんだかここ最近、ずうっとぼんやりしている」
 小夜が不服げに口を尖らして応えた。なんとなく気まずく感じて、加与子は友人の顔から目を逸らして言った。
「何でもないよ」
「恵一さんのこと?……やっぱり好きだったの?この間はごめん、嫌な気持ちにさせたのなら謝る」
「違うの」
 思わず鋭い口調になってしまったことに内心うろたえながらも、加与子は続けた。
「確かに、恵ちゃんに関することなんだけど。違うの。あたしが考えていることは、そういうことじゃない。……それに、多分、あたし、恵ちゃんのこと……好きじゃない」
 それまで自分の中でふらふらと揺れ動いていたものが、言葉にした途端、ぴたりとどこかに納まったような感じがした。小夜が黙り込んで、加与子の顔をじっと見つめている。
 ふと、音楽室での会話を想い起した。
――“ウンディーネ”って、何のことかな――
 なぜ今になってそんなことが心に引っ掛かったのか、加与子自身わからなかった。けれども、それが今の自分を救うヒントになるような気がした。
「小夜」
「なあに」
「……前に、ウンディーネの話してくれたよね。確か、水の中に住む妖怪だっけ?人間と恋に落ちることもあって、人間にもなれるって」
「ああ……それがどうかしたの?」
 怪訝な顔で小夜が尋ねる。
「別に。……なんかロマンチックだよね。人魚姫みたいで」
 取り繕うようにそう応えた途端、ふと、ある考えが浮かぶ。気づいたときには、それが口を突いて出ていた。
「でも、恋人に裏切られると死んじゃうんだっけ?恐くないのかな、捨てられるかもしれないのに」
 きっと、恋をして人間になったウンディーネは、どこまでも相手に尽くすだことだろう。恋人を思うがゆえ、そして、恋人に愛想を尽かされ命尽きることを恐れて。想像してみて、加与子はぞっとした。そして同時に、ウンディーネが、恵一といるときの自分自身と重なった。
 ただひたすらに相手の顔色を伺い、ひたすら相手の望みに合わせて生きる。それは幸せなことなのだろうか。たとえそれによって守られるものがあったとしても、さぞかし窮屈で息苦しい日々だろう、と加与子は思った。そうしていてすら見限られることもあるというのに。
「小夜、変なこときいてもいい?」
「なに?」
 少し躊躇った後、加与子は口を開いた。
「もしも、あたしが今のあたしでなくなっても、あたしと一緒にいてくれる?」
 小夜が眼をぱちくりさせた。
「どうしたの?急に。それ、どういう意味?」
 しどろもどろに加与子は応えた。
「なんていうか……。もしかしたら今、小夜が沼沢加与子だと思っている子が、本当のあたしじゃなくって、誰かのために無理して作りあげたものだったとするじゃない?それで、あたしが、何かの理由で本来の自分に戻ったとしたら、小夜はあたしと一緒にいてくれるのかなって。なんとなく」
「なあに、それ」
 鼻先で笑う小夜に、加与子は恨めしく一瞥をくれた。それには構わぬ様子で友人は言葉をつなぐ。口元にはいつものチェシャ猫のような薄笑いが浮かんでいた。
「そんなの、決まってるじゃない。一緒にいたいと思えば一緒にいるし、嫌だと思えばさようならだよ」
「薄情者」
「“どんな加与でも一緒にいるよ”とでも言って欲しかった?」
 少し考えてから加与子は応えた。
「あんたの口からそんなセリフが出たら、白々しくて笑っちゃいそう」
「でしょ?」小夜が勝ち誇ったような微笑みを浮かべる。それにつられて思わず笑ってしまった加与子だった。
 自分は彼女のこういうところがいいのかな、と加与子は不意に思った。この友人と話していると、自分をよく見せようという気負いがどこかへ行ってしまうのだ。もしかしたら、自由気ままな彼女の性分が、一緒にいる加与子にも伝染してしまうのかもしれない。
「それに加与。一つ大事なことを忘れている。あんたが変わるってことは、そっちがあたしを置いて行くってことでもあるんだからね。あんたが変わったら、そっちがあたしを嫌になる可能性もあるんだよ」
 友人の言葉に、加与子ははっとして思わず立ち止った。自分を尻目に歩いて行く友人に、加与子は訊ねた。
「小夜は、それでいいの?もしもあたしがあんたのことを嫌になって、離れてしまっても」
 小夜が立ち止まり、加与子の方へ振り返る。少しの間、考え込む素振りを見せた後、彼女は答えた。
「いいも何も……。だって、人が変わったり変われなかったりするのって、どうしようもないことでしょう?変わってしまった自分や、変われない自分を、目の前の相手がどうしても受け容れてくれないなら、諦めて、“受け容れてくれる別の誰か”を探すしかないじゃない。その自分を、自分がほんとうに“これでいい”って思えるなら。自分を偽ってまで誰かにしがみついていて、幸せって言える?……それって、生きてるのに、死んでるのと同じじゃないかな」
 その言葉が、加与子には天地をひっくり返す魔法の言葉のように聞こえた。
 不意に、彼女のどこか深いところから、何かが溢れ出すような感覚に襲われた。けれどもそれは、喉の奥に支えて渦を巻くばかりだった。それを言葉に変えて吐き出すのに必要なものが何かひとつ、自分の中で欠落している、加与子にはそんな気がしてならなかった。
 とっさに深く息を吸おうとした途端、時折彼女を襲うあの息苦しさを感じた。
 この息苦しさはなんだろう、どうしたら、自分はこの苦しさから解放されるのだろう。そう思うか思わないかのうちに、辺り一帯が水で一杯になった。びっくりして周りを見渡したが、ついさっきまで廊下を歩いていた生徒たちの姿は消え去り、水の底にいるのは自分だけだ。
 途方に暮れて、自分の口から飛び出した水泡が、ぶくぶくと音を立てて頭上へ昇っていくのを目で追う。と、その先に意外な光景があった。
 廊下の天井があったところには、丁度鏡でも埋め込んだように、加代子の立つ廊下とそっくりな廊下が逆さまに映っている。違うところといえば、廊下がプールになっていないということと、加与子のいる方には誰もいないのに、頭上に見える廊下には彼女と同じ制服を着た生徒たちが、まるで何事もなかったように廊下を行き交っていること、くらいだった。
 そこで初めて、“逆さま“なのは自分の方なのだ、ということに気がついた。唖然としていると、いつの間にか頭上にあの少女が現れ、加与子のことをじっと見上げていた。
 少女と視線が重なった瞬間、ようやく、彼女は理解した。水の中にいたのは、あの少女ではなくて、自分なのだ。息苦しくなるのは、突然呼吸ができなくなるからではない。もともと呼吸のできないところで息をしようとしていたせいだったのだ。
――ずっと、そこにいるつもり?――
 少女の幽かな声が耳に届く。
 唇を震わせながら、加与子は口を開いた。
「ねえ、お願い」
 大きなあぶくがひとつふたつ、小さなあぶくを伴いながら、頭上へくるくると舞い上がる。それに構わず、彼女は続けた。
「ここから出たいの。力を貸して」

 * * *

 その日は朝から土砂降りの大雨だった。梅雨どきの弱々しい陽射しはあっさりと厚い雲に遮られ、昼ですら、半袖でいると風邪を引いてしまいそうなほど、薄ら寒い一日だった。
 雨粒が傘を叩く音を聞きながら、まるで聖書で語られている大洪水を惹き起こした大雨みたいだ、と加与子は思った。
 人間たちの欲望や憎悪で汚れきった地上を洗い流した、贖罪の雨。自分の中で渦巻く煩わしい記憶や感情も、いっそこのまま流し去ってくれればいいのにと、加与子は思わずにいられなかった。
 けれども、自分の中にこびりついた要らないものは、自分の手で取り除くしかないのだ。そうしなければ、いつまでもそれに縛られたまま、どこへも行けず、呼吸もままならないまま、少しずつ死んでいくのかもしれない。
「かよちゃん」
 不意に背後から名を呼ばれ、加与子は思わず身体を強張らせた。それが自分で呼び出した相手の声だとすぐに判ったけれど、だからこそ彼女は緊張したのだ。
 ひとつ深呼吸をしてから、精一杯笑顔を作り、振り返った。その笑みのぎこちなさを彼に気取られぬようにと祈りながら。
「恵ちゃん」
 加与子の前に現れた恵一は、いつもどおりの、かつて加与子をときめかせていた『恵ちゃん』のままだった。それなのに、彼女の眼に今映る彼は、かつての恵一ではなく、遠く隔たった、得体の知れない見知らぬ人物のようだった。
「ごめんね、待った?」
「ううん。ごめんね、突然呼び出して」かむりを振って加与子は応えた。
 待ち合わせをしていたカップルの会話みたい、と思ってから、その思いつきにぞっとした。
「それで何、俺に用事って?」
 そう言って、恵一は屈託のない笑みを見せる。なんとなく後ろめたさを感じて、加与子は思わず目を逸らした。一度は押さえつけた躊躇いの気持ちが今さらになって鎌首をもたげ、焦ってどうにかすることないんじゃない、と彼女に囁く。
 けれども、もうすぐ他県へと去ってしまう恵一を捕まえる好機は今日しかないのだ。次の機会を待っていたら、何カ月、ひょっとしたら何年先のことになるか分からないのに、先延ばしにするわけにはいかない。意を決して加与子は言った。
「えっとね、大したことじゃないの。……恵ちゃん、もうすぐ、大学の方に戻っちゃうでしょ?その前に、一度ゆっくり話したいなって思って」
 すると、いかにも拍子抜けしたような顔をして恵一が溜息を漏らした。
「なんだ、そんなことなの?俺はてっきり、かよちゃんに彼氏できたとか、そういう報告でもされるかと思った」
「まさか。がっかりさせてごめんね」
「大した用事じゃないなら、わざわざ呼び出さなくてもいいだろ。俺だって、暇じゃないんだから。……それにここ、あの公園のすぐ近くじゃないか。かよちゃん、よくこんな場所を待ち合わせに選んだね」
「ごめんね」
 笑って誤魔化しながら、加与子は応えた。既に帰りたがっている様子の恵一を、なんとかして繋ぎとめなければと言葉を繋げる。
「ただ話しをしたいってだけじゃなかったの。できたら、恵ちゃんと話しながら、あの公園を歩きたいなって思って」
「え?……かよちゃん、それ、本気で言ってるの」
 目を円くした恵一に構わず、加与子はこくりと頷いた。
「うん。ほら、恵ちゃんも言うとおり、あたしもそろそろ、彼氏とかできてもおかしくない歳でしょう?昔のことに囚われて、いつまでも男性恐怖症のままじゃだめだと思うの。あの公園を恵ちゃんと一緒に、何事もなく歩いてみたら、トラウマを克服できるんじゃないかなって」
 我ながら、少し無理のある理屈かもしれない、と思ってしまった加与子だった。けれども、本来の目的から逸れているわけではない。ただ、大事なところをぼかしているというだけだ。
 始めのうちは怪訝な顔の恵一だったが、頼みこんでなんとか公園の中へ引っ張りこむことができた。
 薄暗く人気のない公園内には、色とりどりの花々が、その美しさを競うように咲き乱れていた。遊歩道に沿って植えられた茂みには、薄桃色や白色のツツジの花が点々と顔を出し、散り際の甘い匂いを漂わていせる。その向こうには今が盛りの紫陽花が、赤や青、黄色や紫の花を咲かせ園内を彩っていた。
 他にも水仙、百合や花菖蒲といった花々が、見る者のないことなど気にも留めない様子で咲き誇る。その佇まいはどこか凛として、気品すら感じさせた。
 園内の空気はたっぷりと水気を孕んで重く、ひんやりとしていた。鳥たちの声は鳴りを潜め、外の喧騒も降りしきる雨音も、全て園内を取り囲む樹々が受け止めてしまうためか、不気味なほど静かだ。頭上の葉先からしたたり落ちる水滴が、そこかしこに小さな水溜りを作り、うっすら緑色の光を照り返している。
 こんなに湿度の高い場所にいるのに、不思議と息苦しさは感じなかった。それどころか、何か大きなものにそっと包まれ見守られているような安心感と解放感とが、加与子を満たしていた。なんだか気持ちがふわふわとして、思わず笑いをもらす。
「あんまり、怖がってないんだね」
 居心地悪そうに辺りに眼を配りながら、どこか非難がましい口調で恵一が言った。
「そうかなあ?……きっと、恵ちゃんが隣にいてくれるからだよ」
 にっこり笑い、恵一を真っ直ぐ見つめたまま、心にもないお愛想で応える。彼女の異変に気付いたのか、落ち着かない様子で恵一は眼を逸らした。
 その瞬間、加与子はこれまでに感じたことのない高揚感を覚えた。自分の中に突如として妖艶な鉄線の花が咲いたような、奇妙な感覚。それが一種の優越感と呼ばれるものだということを、そのときの彼女はまだ知らなかった。
 急に目の前の青年が、自分にとって窮屈で退屈な存在でしかないように思えてきて、加与子は戸惑った。ふと路傍に眼を移すと、あの池のある小広場への入り口を示す案内板が視界に飛び込んできた。
「恵ちゃん、ほら見て。……あそこだったよね、確か」
 案内板を指差しながら、加与子は恵一の方へ振り向いた。
「ああ、そうだね」
 どこか上の空でそう応えた直後、恵一は立ち止まり、叫ぶように言った。「……なあ、もう、ここまででいいんじゃないの。わざわざ昔の嫌な記憶をほじくりかえしたって、いいことなんてないよ」
 恵一は明らかに苛立っているようだった。
「恵ちゃん、どうしたの」
 従兄ははっとした表情を見せた後、顔を背けて取り繕うように言った。
「いや、別に。……ただ、かよちゃんが、嫌なことを思い出して、また傷ついたら可哀想だなって」
「恵ちゃん。……相変わらず、優しいんだね」
「そんなこと、ないよ」
 はにかんだ様子でそう言うと、恵一は続けた。
「なあ、もう、いいだろ。昔のことなんて忘れてさ。これからのことだけ考えなよ」
 加与子はしばらく考え込む振りをしながら、じっくり恵一を眺め回した。彼がこういった反応を示すだろうことを、彼女はなんとなく予想していた。
 この瞬間、これまでの従兄の言動の裏側に隠れていたものを、はっきりと見透かしてしまった手応えを感じた。この一件に触れられたくないのは、きっと自分より彼の方なのだ。
 ただ純粋に自分を喜ばせるために捧げられていると信じていた花束が、ほんとうは自分を欺くためのまやかしの造花だったということに気づいてしまったような気分だった。
 ぐらつく足元を押さえつけ鎮めるような気持ちで、加与子は深呼吸してから恵一に微笑んで見せた。
「そうだね。……恵ちゃんが、そう言うなら」
 そこで加与子が言葉を切ると、途端に恵一が晴れやかな顔になる。彼は機嫌良くにこにこと笑いながら、加与子に手を差し出した。
「わかってくれたんだね。それじゃ、一緒に帰ろう」
 加与子は差し出された従兄の手を握ろうとはしなかった。踵を返して恵一に背を向けると、傘を投げ捨て、一目散に、あの池のある小広場の方へと駆け出した。
 従兄の鋭い静止の声には耳を貸さず、加与子は一心不乱に池を目指した。

 * * *

 顔や髪をじっとりと濡らし伝い落ちていく雨粒、靴越しに伝わってくるねっとりとまとわりつくような泥の感触、そして、背後から聞こえてくる自分の名を呼ぶ男の声。それら全てが、容赦なく加与子を揺さぶり起こそうとしているようだった。
 この、それまで紛れもない実像だと信じていたものが、あっさりと姿を変える恐怖と絶望とを、自分にとって無害なものだった存在が、逃れようのない苛烈な責め苦として背後から迫り来る焦燥と混乱とを、加与子は過去に知っていた。
 走るうち、安全なはずの現在から、残酷な過去に引き戻されてしまったような錯覚に陥った。
 池のほとりまでたどり着いたとき、加与子は背後から凄まじい力で捕らえられた。今度は髪の毛ではなく、腕だった。ようやく我に返り立ち止まる。
「どうしたんだよ、かよちゃん。突然走りだして」
 おそるおそる振り向くと、恵一の顔があった。怒りとも恐怖ともつかないひきつった表情で加与子を見つめるその顔の、向かって右側の額にある古い傷痕に、加与子の目は釘付けになった。
 一度砕け散った記憶の破片が、ひとつひとつ組み合わせって、それまで見えていたものとは違う景色を映し出していく。全身に鳥肌が立つのを感じながら、とっさに恵一の手を振りほどいた。
「かよちゃん?」
「あ、ごめんね」
 震えだした身体を両腕で抱きかかえるようにしながら加与子は言った。
「恵ちゃん。ひとつ、ききたいことがあるの」
「何?」
「恵ちゃんの額の傷、確か、私にいたずらしようとした犯人と戦ったときにつけられたんだよね?」
「ああ……。そうだけど、何?」
 こともなげにそう応えた恵一の顔を、加与子はじっと見つめた。もしも、自分の疑いが思い過ごしだったとしたら……。そう考えると、言葉が喉の奥へ引っ込みそうになる。けれどもそれをはっきりさせなければ、自分は一生、息苦しい水の底に縛りつけられたままだ。
「それ、ほんとうなの?」
 一瞬、恵一の顔が真っ赤になり、顔がぎこちなくひきつるのを加与子は見た。
「何を、言ってるんだ?」
 唇を震わせ、いつになく低く抑えた声で恵一が言った。背中を電気が走るような感覚と、胃の中に冷たい水を流しこまれたような感覚とに襲われて、彼女は、自分が彼の触れてはいけないものに触れてしまったことを悟った。
「だって、色々とおかしくない?あのとき、恵ちゃん、高校生っていっても、どっちかといえば華奢な方で、スポーツも特にやってなかったでしょう。それで、どうやって三十代くらいの大人の男の人と戦えたの?」
「それは……。相手もそんなに体格のいい方じゃなかったし、人が通りかかって、すぐに逃げたんだよ」
「通りかかった人って誰?私、そんな話、今きいた」
「それは、俺もわかんないよ。物陰から、“誰かきて、喧嘩だ!”って声が聞こえただけで。ごたごたに巻き込まれるのがいやで、その人も逃げたんじゃないかな」
 恵一の目がだんだん不自然に泳ぎ始め、返答もしどろもどろになりだした。そんな彼を見据えながら加与子は更に問い詰めた。
「あたしのお母さんに、事件のことを言ったら、そんなの知らないって。恵ちゃん、あのときあたしには“おばさんたちには俺が話しておくから”って言ってたよね」
「やだな。そんなの、おばさんが忘れてただけかもしれないじゃないか」
 恵一の声音が、普段の穏やかなものから、徐々にとげとげしく甲高いものに変わっていく。加与子は無意識に後退りしながら反論した。
「自分の娘が知らない男に襲われそうになったことを?恵ちゃんが、最初から話してないだけなんじゃないの」
「何言ってるんだよ、かよちゃん」
「恵ちゃん、あたし、最近思い出したことがあるの。犯人に押し倒されて襲われそうになったとき、手元にあった尖った石で、相手の左の額を殴りつけたんだよ。そいつの額から血が出てびっくりしたの、はっきり覚えてる。そんなつもりじゃなかったのにって、後悔してた。おかしいよね、自分を襲おうとした見ず知らずの人に、なんでそんなこと思ったんだろ?」
 そこでいったん言葉を切り、恵一の顔を見据えた。けれど、彼は黙ったままだ。目を伏せて、加与子の方を見ようともしない。声が震えそうになるのを懸命に抑えながら、彼女は言葉を続けた。
「額を怪我したのは恵ちゃんのはずなのに、犯人も同じところを怪我するなんて、偶然にしてもできすぎじゃない?それに、あたしの記憶の中では、公園にはあたしと犯人以外の人間なんていなかった。恵ちゃんがいつ現れて、どうやってあたしを助けてくれたのか、何も覚えてないの。……もしかして、あたしを襲ったのって、知らない人じゃなくて、恵ちゃんだったんじゃないの?」
 そこまで言って、加与子は恵一の返事を待った。やがて恵一が、不気味にくつくつと笑いを漏らしながら口を開いた。
「そんなの、かよちゃんの記憶違いだよ。それを思い出したのってつい最近なんだろ?俺が怪我したこととか、色んなことがごちゃ混ぜになって、今になってそんな風に錯覚したんだよ。ひょっとして、俺に彼女ができたからって、やっかんでそんなこと言ってるの?かよちゃん、俺のこと大好きだもんね」
 最後の一言は加与子の心の奥深くを抉った。訳のわからない怒りに駆られながら、加与子はほとんど叫び声に近い声で言った。
「それなら、恵ちゃんがあたしを助けて、その怪我をしたときの状況、詳しく説明してよ。あたしだけじゃなく、あたしのお母さんとお父さんにも。犯人がほんとうにいて、恵ちゃんが戦ってくれたのもほんとうだったら、できるでしょう?」
 暫くの間、二人の間に沈黙が降りる。急に無表情になって黙りこんだ従兄を前に、加与子は言い様のない気味の悪さを感じながら、ほとんど無意識に池の方へと少しずつ後退りしていた。
 樹上から滴り落ちる雨粒が、彼女の頭や肩を叩いて滑り落ちていく。身体はしとどに濡れそぼり、芯まで冷えきっていた。自分の身体が小刻みに震えているのが寒さのためなのか、それとも恐ろしさのためなのか、加与子にはよく判らなかった。
 およそ、生き物の立てる物音は聞こえない。今ここにいるのは恵一と自分だけ。ここはある種の密室なのだ。ここで起こっていることを知る人はいないし、助けを求めても誰の手も差しのべられないことを、彼女は強烈に意識していた。
 やがて恵一が、大きなため息を吐きながら、がくりと項垂れた。 
「恵ちゃん……?」
 次の瞬間、従兄は顔を上げた。普段の穏やかな彼とはうってかわった凄まじい形相に、加与子は全身が強張り、皮膚がぴりぴりするのを感じた。
「何で今頃、思い出すんだよ。……ああ、もう、くそ。忘れたんなら、一生忘れてお姫様やってろよ」
 低くくぐもった声で呟くようにそう言うと、恵一は加与子を睨み付け、声を張り上げた。
「ああ、そうだよ。お前をここでとっちめたのは俺だよ!しょうがないだろ、せっかく相手してやってたのに、お前がむかつくこと言うから……!」
「恵ちゃん?」
 震える声でなんとかそう言ったが、そこから先は言葉にならない。ふと、忘れていた光景が蘇った。

 * * *

 六年前のあの日、自分はここで恵一と遊んでいた。その日は祖父の葬儀を終え、親族で遺産の分割について話し合う日だった。加与子の家が話し合いの会場に選ばれ、子どもたちは邪魔になるからと、二人は家から追い出されたのだ。
 突然降り出した雨に、裸足になっておおはしゃぎで駆け回る自分と、それをうんざりした様子で眺めている恵一。今では見る影もないが、かつての恵一は、いかにも、外で元気に友人たちとスポーツというよりは、屋内で一人ゲームや漫画に興じている方が似合いそうな、ひょろりとして色白なもやしっこ子の少年だった。
 今はコンタクトだが、当時は所謂「瓶底眼鏡」を掛けていて、イライラするとブリッジの部分を指で何度も押し上げる癖があった。そのときも眉間に皺を寄せて加与子を「監視」しながら、しきりに眼鏡を押し上げていた。
 服や靴についた泥汚れを、不快そうに手で払いながら彼は言う。
「ねえ、かよちゃん。雨も降ってきたし、もう帰ろうよ。服も足も汚れちゃうよ」
「いや。もうちょっと遊ぶ」
 恵一の言葉に、加与子はかむりを振って応える。すると、従兄は少し唇を震わせた後、作り笑いを浮かべ、優しげな作り声で呼び掛けた。
「帰ろうよ。……きっとそろそろ、おじさんたちの話し合いも終わってると思うよ。雨も降ってきたし、あんまり遅いと、怒られるよ」
「やだあ」
「かよちゃん!!」
 苛立つ恵一にはお構いなしに、自分はそっぽを向いて剥れて見せる。
「帰りたいなら、恵ちゃん先に帰ればいいよ。あたし、一人で遊ぶもん」
「それじゃ、俺が母さんに怒られちゃうよ」
 懇願するような恵一の声音とその言葉に、加与子は優越感と苛立ちとを覚えた。刹那、彼女の中で、恵一をもっと困らせてやりたい、という、悪戯心が沸き起こった。考えるよりも先に、言葉が口を突いて出た。それが彼の逆鱗に触れることになるとは想像もせずに。
「恵ちゃん、さっきから服が汚れるとか疲れたとか、怒られるとか、そんなのばっかり。ゲームと漫画とお母さんしか興味ないんでしょ?もういいよ、恵ちゃんと遊んでてもつまんない。……そんなんだから、友だちも彼女もできないんだよ」
 次の瞬間、彼の表情が豹変した。僅かな沈黙の後、怒声が加与子の耳をつんざいたかと思うと、従兄は傘をかなぐり捨て、芝生の上に立つ加与子めがけて突進してくる。
 ほとんどパニック状態のまま、加与子は闇雲に駆け出し、あの池の広場まで逃げたのだ。そこで恵一に押し倒されて、手近にあった石を掴み、殴りつけた。
 そこで気を失い、目覚めたときには、元通りの穏やかな従兄が自分を介抱していた。気を失う前に起こった一連の出来事は、きれいに忘れていた。そして従兄から聞かされた話を事実だと信じたのだ。
 彼の説明を鵜呑みにした理由には、もしかしたら、そのとき植え付けられた、彼に対する恐怖心と罪悪感もあったのかもしれない。

* * *

 打ちのめされた気持ちで、加与子は立ち尽くしていた。どこかで稲光がしたかと思うと雷鳴が轟き、雨足がさらに強まる。梢から滴り落ちる雨粒は、氷か硝子の破片のように鋭く冷たく感じられた。
 けれども、身体が震えるのは、決して寒さのためばかりではないことを、彼女ははっきり理解していた。
「恵ちゃん……」
 自分が従兄に対して抱いていた感情の正体が明らかになった今、加与子の胸を占めるのは空虚さばかりだった。愕然として立ち尽くす彼女に、恵一が畳みかけるように言葉を投げつける。
「ほら見ろ、今さらそんなことを思い出したって、何にもならないだろ。……それとも、ばらすつもりか?俺の親や、お前の親に。復讐が目的か?」
「え……?」
 思いがけない質問に、加与子は呆気にとられて従兄を見つめた。彼女はただ、ずっと自分を煩わせていた恐怖の記憶を克服したかっただけで、それ以上のことは何も考えていなかった。「復讐」という言葉は彼女にとってあまりに遠いものだった。いまひとつピンとこず、加与子は戸惑ってしまった。
 ところが、従兄はその沈黙を肯定の意ととらえたらしい。鬼のような形相になったと思うと、つかつかと大股で加与子に詰め寄った。
「やめろよ。俺は今、就活もあって、やっと彼女もできたところで、大事な時期なんだよ。子どもの頃のつまんないことでめちゃくちゃにされたら、たまったもんじゃないよ」
 加与子は一瞬、頭の中が真っ白になった。そして直後、爪先から頭の天辺まで、全身を怒りが貫くのを覚えた。従兄に恋人ができたことを知ったときに感じたものより、もっと鋭く、焼けつくような感情だった。
 彼の言う「つまらないこと」に、自分は何年も苦しめられてきたのだ。そして恐怖と罪悪感とを別の感情とはき違えて、こんな「つまらない」男にずっと縛られてきたのかと思うと、悔しさと恥ずかしさみじめさとで頭がおかしくなりそうだった。
 恵一が自分の腕を掴もうとするのを、加与子は全力で振り払った。
「嫌。触らないで」
「どうしたんだよ、急に」
 後退りしながら、従兄の顔をまっすぐに見つめて加与子は言い放った。
「急にじゃないよ。あたし、ほんとはずっと、恵ちゃんに触られるの嫌だったんだよ。……気持ち悪い。二度と触らないで。顔も見たくない」
 従兄の顔が真っ赤になった。口許がぴくぴくと痙攣したように動いたと思うと、激しい罵りの言葉とともに、彼の拳が加与子めがけて振り下ろされた。
 とっさに目をつむり、身体を固くした。ところが、その拳が加与子に達するより早く、突然背後から誰かの腕が伸びてきて彼女を捕らえた。すぐ背後には、あの池があった。加与子はそのまま水中へと引きずりこまれてしまった。
 どぼんと水音が響き、どこか隔たったところで従兄が短く叫ぶ声が聞こえた。池の中は見た目よりもずっと深く、淀んでいた。
 加与子が水中から抜け出そうともがいていると、何かが彼女を抑えつけ、引き留めた。パニック状態で抵抗する彼女の耳許で、聞き覚えのある少女の声が囁いた。
――大丈夫だから、じっとしていて――
 加与子にずっと幻覚のようにつきまとっていた、あの少女の声だった。そう気づくか気づかないかのうちに意識が遠退き、彼女の記憶は途絶えた

 * * *

「あら、カヨちゃん」
 聞き覚えのある声に振り向くと、少し離れたところに美千代おばさんの姿があった。整った顔にきれいな笑顔を浮かべ、加代子に向かって、ひらひらと優雅に手を振っている。それに応えて会釈してから、加与子は彼女に駆け寄った。
「お久しぶりです」
 あの公園での一件から、もう一週間以上経っていた。

* * *

 池で溺れ気を失ったはずの加与子だったが、気がつくと、全身びしょ濡れで池のほとりに倒れていた。周りに人影は見当たらず、誰かが救急車を呼んだ様子もなかった。
 恵一の姿も消えていた。池の近くから公園の外へ向かって続く、明らかに男物のスニーカーと分かる新しい靴跡だけが、彼がここにいた唯一の証拠だった。
 その靴跡を見た途端、恵一が自分を見捨てて逃げたのだということを、加与子は悟った。怒りや悔しさ、恥ずかしさや後ろめたさが胸の中で猛り狂い、涙が溢れて止まらなかった。けれど同時に、安心もした。生まれて初めて、思い切り呼吸をできたような気がした。
 気持ちが収まった頃、ふと、人の気配を感じた。振り向くと、池の中にあの少女が立っていた。真っ白いワンピース姿で、膝の辺りまで水に浸かったまま、真っ白い百合の花を抱える姿は、あの絵の情景そのままだった。少女の立つ辺りが、ほんとうは彼女の膝など軽く越すほど深いということは、できるだけ考えないようにした。
 そのとき、初めて加与子は少女の顔をじっくりと眺めた。そして、あることに気がついた。
 少女の顔は、幼い頃の自分のそれとそっくりだったのだ。この瞬間、彼女は全てを理解できたような気がした。急に気が抜けた気分になって、加与子は弱々しく笑いながら少女に言った。
「今まで守ってくれて、ありがとう。……あなたが、私の証人だからね。これから先も、ずっと」
 すると、少女は返事の代わりとでもいうように、小さく微笑んで見せた。そして、煙か陽炎のように、ふっとかき消えてしまった。
 恵一が翌日、加与子が留守のときに家へ訪ねてきたと、後で母から聞かされた。そしてその後すぐにS県へ発ってしまったという。
――恵ちゃん、あんたのことをやたらと気にかけていたわよ。今は彼女がいるそうだけど、ほんとはあんたのこと、まんざらでもなかったんじゃないの――
 ニヤニヤと笑いながら暢気にそう言う母に、胸やけと吐き気とを覚えた加与子だった。きっと恵一はもう二度と、自分から加与子に近づくことはないだろう。

* * *

「悪いわね。せっかくのお休みの日に」
 微笑んだまま、いくらか申し訳なさそうに美千代おばさんが言った。
「いいえ。こんな素敵なところに呼んでもらえて嬉しいです」
 ぶんぶんと首を横に振りながら加代子が応えると、美千代おばさんは満足そうに微笑んだ。
「そう?よかった、喜んでもらえて」
 二人がいるのは、オフィスビルの中にある小さなギャラリーだ。入り口には「夏の夜の夢」と書かれた看板が立てられ、中では夏をテーマとして、ガラス細工や絵画、オブジェや織物といった様々な作品が展示されていた。
 数日前、加与子は美千代おばさんから、このグループ展に招待されたのだ。「お母さんには内緒で」という条件付きで。美千代おばさんもこのグループ展に出品しているという。
 母に対する後ろめたさは、自分だけが憧れの美千代おばさんに「選ばれた」喜びと誇らしさとに、あっさりと吹き飛ばされてしまった。そして今日、加与子は友人と遊ぶと嘘を吐いて、母を残し家を出てきたのだった。
「カヨちゃん、髪切ったのね」
「あ、はい。……変ですか?こんなに短くしたの、久しぶりで」
 実際、髪を切ったら、もともとの天パのせいで髪があちこち跳ねてどうしようもないのだ。随分昔にそれを恵一にけなされて以来、ずっとロングで誤魔化してきたから、気恥ずかしくて仕方なかった。それに、今まで着ていた服の半分くらいは似合わなくなってしまったような気がする。
 どぎまぎしながら加与子が尋ねると、美千代おばさんは首を横に振る。
「まさか、かわいいわよ。ウルフカットね」
 嬉しいような気恥ずかしいようなふわふわした気分になった。なんとなく美千代おばさんの顔を見ることができなくなり、辺りの作品をひととおり眺め回してから、加与子は言った。
「ところで、美千代おばさんの作品は、どれですか?さっきから、見つけられなくて……」
 これはほんとうのことだった。前の生け花の展覧会では、一番目立つところに彼女の作品があり、大きな字で「藤柳美千代」という、彼女の旧姓でのフルネームが書かれたキャプションがあってすぐに分かった。けれど、今日は会場のどこを探しても、彼女の名前で出品されている作品が見当たらないのだ。失礼だとは承知の上だったが、加与子は途方に暮れて尋ねた。
「あ、そうか。ごめんね、言うの忘れていたわ」
 さして気に障った様子も見せず、美千代おばさんはカラカラと笑って言った。
「ここでは本名で出してないのよ。雅号でね、“センシュウ”って名前で出しているの」
「センシュウ?」
 きょとんとして加与子がオウム返しに呟くと、彼女は加与子を手招きしながら一つの作品の前へと連れて行く。そしてそのキャプションを指し示しながらにっこり笑った。
「これよ、これ」
 見ると、そこには大きく「倩湫」と書かれている。と、その名前にどこか見覚えがあるような気がして、加与子は記憶を手繰り寄せた。
「あれ、この名前って……」
 そして、慌てて作品に眼を移す。それは麝香葵と鬼灯とを用いた生け花作品だったが、加与子の眼を惹いたのは花器の方だった。深い藍色の底部から、上へ向かうにつれて色が透明に近づいていく繊細な色彩と、湧き出る水を思わせる形容。あの展覧会で加与子が一番気に入った作品に使われていた花器と、それを活けた人の名前だった。
 混乱したまま加与子は美千代おばさんを見つめ返した。
「嘘……。だって、本名で出していたのと、作風が違いすぎる。おばさんのイメージじゃないし。おばさんって、もっとこう、華やかで明るいのが好きそうなのに」
「ああ、あっちはね、人気があって飾ると人が沢山入るからって、客寄せで頼まれて作っているのよ。ほんとうは私、もっと地味好みなのよ。まあ、確かにあっちも嫌いではないし、たまに息抜きでやる分には楽しいけれど……。本命はこっち」
 そう言ってはにかむ美千代おばさんを、加与子は信じられない気持で凝視した。あ
「カヨちゃんが、前にこっちの作風の方を好きだっていってくれたのが嬉しくて、今回呼んじゃった。……お母さんには内緒よ」
 無邪気なもの言いに思わずこくりと頷いてしまった加与子だった。改めて作品を眺めてみると、この作品も前回のもの同様、ぱっと人目を引くものではなく、「枯淡」という言葉でも似合いそうな、地味な作品だった。けれど、じっくり見ていると、滲みでてくるような上品さや妖艶さを感じさせる作品でもある。
 美術芸術に対する興味も知識も薄い加与子でも、見る人を選ぶ作風だということは察することができた。
「他にもっと人気のある作風もできるのに、どうしてこれで続けるんですか」
 美千代おばさんの気分を害しはしないかと思いつつ、恐る恐る尋ねる。ところが、彼女は意外なほどあっさりと応えた。
「だって、私が作りたいのがこれなんだもの。私はね、芸術って自分の内面を深めていくため、探っていくための手段だと思っているの。自分ためにやっていることなのに、人気取りのために違うものを作るくらいなら、いっそ辞めた方がましだわ」
「“自分の内面を探っていく”?」
 意味を飲み込めず、加与子は小首を傾げて美千代おばさんを見た。
「そう。そうして、自分自身と対話して、自分を見つめ直していくの。……それなのに、自分以外の“誰か”のために自分を偽ってしまったら、本末転倒じゃない」
 美千代おばさんの言っていることは、いわゆる創作活動全般に縁のない加与子には少し分かりにくかった。けれど、美千代おばさんにとっての“芸術”が、少し前に自分が経験したことと、ちょっと似ているのかもしれない、ということは理解できるような気がした。なんとなく、美千代おばさんに小夜の面影が重なる。
「肝心なのはね、自分が納得できるかできないか。自分が全力でやったことを、もしもそのときその場で認めてもらえなかったとしても、それは決して自分のやったこと自体に価値がないってこととは限らないのよ。たとえば、あなたのお母さんが見向きもしなかった私の作品を、カヨちゃんは好きだって言ってくれたみたいに。自分がほんとうに価値があるって思えるものなら、きっとどこかに同じように思ってくれる人がいるって、信じるのよ。そして、どれだけ”外(ほか)の顔”を作っても、自分が自分を見失わないことが、何より大切だと思う」
 そう言って眼を耀かせる女性を「おばさん」と呼ぶことに初めて抵抗を覚えた。これからは「美千代さん」と呼んでもいいだろか。後で聞いてみよう、そんなことを考えた加与子だった。

 * * *

「ねえ、小夜」
 加代子が後ろの席から声をかけると、友人は振り向きもせず返事をした。
「なあに」
 生徒たちがひしめく教室の喧騒の中でも、彼女のよく通る声を加代子が聞き漏らすことはない。相変わらず前を向いたままそっけなく応える小夜の後ろ頭を睨み付けながら言った。
「また、垣崎さんと漫画交換ですか」
「そう」
「よく続いてるわね、あんたにしては」
 友人は少し俯いて、小さく、ふふ、と笑いを漏らす。彼女の赤茶色の髪がその動きに合わせて揺れ、あの独特の香りがふわりと漂った。けれども、その香りに加代子の心がざわつくことはもうなかった。
 相変わらず続く連日の雨で、教室の中は蒸し暑いような、それでいて肌寒いような、奇妙な空間と化している。自習中に誰かが窓を開けたらしく、ひんやりとした空気がうっすら漂っていて、息苦しさは感じられなかった。
「うん。なんかね、趣味が合うみたい」
「ふうん」そっけなく加代子が応えると、小夜が鼻を鳴らして囁く。
「なに、妬いてんの。やめてよね、あたしはあんたの彼氏じゃないよ」
「べつに」
「垣崎さんね。なんかちょっと、あんたと似てる」
 思いがけない一言に加与子はどぎまぎしたが、それを表に出さず、わざとそっけなく応えた。
「あ、そう」
「あんたのこと話したら、一回話してみたいって。平日は部活があるから、休みの日か半ドンの日がいいって」
「え?……それは当分無理」
 すると、そこで初めて小夜が振り向いた。「なんで?」
 彼女の目は見開かれ、珍しく、不安の色を浮かべている。なんとなく勝ったような気分になった。けれどもすぐに後ろめたさを感じて、加与子は口ごもりつつもごもごと言い訳した。
「髪が伸びるまで待ってもらってよ。今の髪型で会うの恥ずかしい」
「なに、それ」
 いかにも呆れたように忍び笑いを漏らす小夜を、加与子は恨みがましく睨み付けた。
「あたし、やっぱり長い方が似合うと思うんだよね。また伸ばそうかなって」
「そんな理由、真夜に言えるわけないでしょ。それに心配しなくても、もうがっつり見られてるよ」
 口を尖らせたまま、加与子はしばらく何と返事をしようか考えた。二人が交換している漫画には、自分も気になっていたタイトルの多いことを知っていた。実は密かに、自分も彼女に興味が湧いていたのだ。
 しかし、長年かけて染みついた人見知りの癖は、まだまだ直せそうにない。迷いに迷った挙げ句、加与子は諦めのため息を吐きながら言った。
「じゃ、来週の日曜日」
 まだ当分は、男性に対する苦手意識を克服することはできそうになかった。けれども、手始めに同性との交流にはもっと挑戦してみたい気分になっていた。
「了解」
 そう言うと友人は前へ向き直った。と思うと、何かを思い出したようにまた振り向いた。
「そういえば。あの音楽室にあった絵の話、きいた?」
「なんにも。そういえば、少し前にいたずらされて飾れなくなったって……」
 鼓動が早まるのを感じた。わずかに緊張しつつ、加与子は身を乗り出した。
「明日からまた飾られるらしいよ。天野さん情報」
「へえ」
 なんとなく拍子抜けして、加与子は呟くようにあやふやに応えた。
「結局犯人見つからなかったみたい。それにしても悪趣味だよね、絵の中の女の子のとこだけ、白い絵の具で塗り潰すなんて」
「ふうん」
 いたずらをされたという話は聞いていたが、どんないたずらかは知らなかった。上の空で返事をする加与子に構わず、小夜は続ける。
「でも、置いといたら、いつの間にか絵の具が落ちて元通りになっていたらしいよ。いたずらした本人が直したんじゃないかって噂もある」
「それ、いつ?」
「先週の土日あたり」
 ふと、ある考えが浮かぶ。少し躊躇ってから加与子は言った。
「もしかしたらそれ、いたずらじゃなかったのかも」
「どういうこと?」
「女の子が、絵の中から抜け出していたのかもしれないよ」
「まさか」
 小夜はカラカラと笑って加与子の言葉を否定した。頭から信じていないのは明らかだった。顔が熱くなるのを感じながら、加与子は目の前で動く赤茶色の頭をねめつけた。
「あんたがそんなこと言うなんて。恐がりはどうしたの」
「この件については平気になりましたの」
 わざと気取って応えると、小夜が再び振り返った。彼女の口許には、いつもの不敵な笑みが浮かんでいた。
「それ、もしかして、前に言っていた“変化”の前兆?恵一さんの話もしなくなったし……」
 一週間以上前の彼女との会話を思い出しながら、加与子は応えた。
「どうだろうね」
 恵一という楔が外れた今、これから自分がどうなっていくのか、どうなりたいのか、加与子自身、見当もつかない。けれども、きっとこれまでの繰り返しにはならないだろうし、今までどおりの自分のままでありたいとも思ってはいなかった。
 それがいつになるのかはわからないけれど、もしかしたら、気づいたときには変わった後、ということもあるかもしれない。何しろ自分はもう、あの息苦しい“水槽”の中から抜け出しているのだから。
 金魚の尻尾みたいにくるくると跳ね踊る自分の髪を見つめながら、加与子は言った。
「まだわかんないよ」

(終)

カバー画像(C)柴桜さま 『いろがらあそび6』作品No.15
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=65680493

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