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花守人の憂鬱

――花守人(はなもりびと)の瑠璃(るり)は、ただじっとして、そのときが来るのを待っていた。
 彼女の仕事のうち、いちばん重要で、いちばん時間を割かなければならなかったのは、“待つこと”だった。――
 久しぶりに、短編をひとつ書き上げましたので、お届けします。
よろしければ、お付き合いを。

 ★ 本編 ★

 花守人(はなもりびと)の瑠璃(るり)は、ただじっとして、そのときが来るのを待っていた。まだつぼみのままの花が植えられた小さな鉢を両手でしっかりと抱え、ところどころに破れ目のある古びた革張りの長椅子にちょこんと腰かけて。
 実際彼女の仕事のうち、いちばん重要で、いちばん時間を割かなければならなかったのは、“待つこと”だった。
 日曜日の昼下がり。市民病院の廊下は、職員や患者、そして見舞い客らしい人々がひっきりなしに往き来していた。階下のロビーから、薬の受け渡しを待つ人々のざわめきや、薬の用意が調ったものを番号順に告げるアナウンス放送などがかすかに聞こえてくる。
 目の前を通り過ぎていく人々を見るともなしに眺めながら、瑠璃はひたすら待ち続けた。その口元には、どこか作り物めいた微笑みが浮かんでいた。
 三月上旬の、よく晴れた日であった。病室には蜂蜜色の光が射し込み、真っ白い床やベッドを金色に染め上げていた。
 艶やかな黒髪をきれいなおかっぱ頭に切り揃え、その名と同じ瑠璃色の地に色とりどりの小花が散る小振袖を身にまとった、十歳前後とおぼしき少女。廊下を通り過ぎる人々のうちに、このなんとも時代錯誤な出で立ちの少女に目を止める者は一人としていなかった。
 やがて、一組の親子がやってきた。夫婦らしい、ともに三十歳代とおぼしき男女と、十歳前後の男の子だった。その親子は、瑠璃が座る長椅子の丁度真正面にある病室へと入っていった。
 何かを覚悟したように顔を強張らせた両親とは対照的に、少年だけが、事態を飲み込みきれない様子で途方に暮れた顔をしていた。病室へと入っていくとき、少年がちらと一瞬、瑠璃にもの珍しげな一瞥をくれていった。
 あらっ、とでもいうような顔をして、瑠璃はその親子が入っていった病室のドアを見つめた。
「あれ、瑠璃」
 不意に名を呼ばれ、瑠璃は顔を上げた。目の前には、茶色がかった黄色の小振袖を着たお下げ髪の少女が立っていた。瑠璃と同じく、つぼみのついた花が植えられた小さな鉢を手にしている。 口元の微笑みを消し去り、瑠璃は言った。
「あら、琥珀(こはく)じゃない。一昨日ぶりね」
「近頃は、病院でばかり会うわね」
 瑠璃に応えて、琥珀と呼ばれた少女が言った。それに応えて、ため息まじりに瑠璃がぽつりと言った。
「ほんとに。ほんの少し前までは方々まわっていて、同業者と鉢合わせすることなんてめったになかったのに。近頃は、病院にばかり来ている気がするわ」
「仲間に会えるのは嬉しいけど、なんだかつまらないわね」
 小さく首を振りながら琥珀が応える。琥珀は瑠璃の真正面にあるドアにちらと目をやったあと続けて言った。
「今日の担当はここ?」
「ええ」こっくりと瑠璃が頷く。
「なんだか、変な顔して扉を見てたけど……?」
「この部屋に入っていった男の子、私のことが見えるみたい」
 そう言うと、瑠璃は少し悲しそうに目を伏せた。
「これからあの病室へ入っていって、私が目の前で仕事をするところをあの子に見られたら、きっとまた、いやなことを言われるわ」
「言いたいように言わせておけばいいじゃない。どうせ彼らには、私たちのやっていることの意味なんてわからないんだから」
 琥珀が眉をひそめて応えた。先ほどよりいっそう悲しげな眼差しで、瑠璃が琥珀を見やった。
 と、そのとき、瑠璃があっと声をあげた。「そろそろだわ。私、行かなきゃ」
 そう言うと、琥珀への挨拶もそこそこに、瑠璃は鉢を手にしたまま目の前の病室へと駆けこんでしまった。その姿が扉の向こうへ消えるのを見届けてから、仕事熱心ですこと、と琥珀がぽつりと呟いた。
「いつもいつも、作り笑いばっかりで……。あの子、いったいどういうとき、ほんとうに笑うのかしら」

  * * *

 瑠璃が入った病室には、先ほど瑠璃の前を通りすぎた親子三人と、一人の看護士がいた。彼らは立ったまま、一つのベッドを取り囲み、そこに横たわる老人の顔を一心に覗きこんでいる。瑠璃はこっそりと、壁につくりつけられた戸棚の後ろへと身を隠した。
「お祖父ちゃん」
 少年が硬い声で呟いたが、ベッドの中の老人は何の反応も示さず、固く目を閉じたままだった。
 老人の鼻や喉、腕や胸からはそれぞれチューブがのびている。口には人工呼吸器が付けられていて、彼の胸の上下運動に合わせて、シュー、シュー、と、規則的な音を発していた。
 ベッドの向こうには波形が表示されたモニターがあった。そのモニターからは、ピッ、ピッ、という電子音がときおり、まるで思い出したように、途切れ途切れに聞こえてくる。
 そのとき、病室の扉が開いた。
「悪い、遅くなった。……父さんは?」
 入ってきた男は、開口一番そう言った。少年の父親が、兄さん、と言って、男に駆け寄る
「だめだ、もう……」
 そこまで言うと、言葉を切った。そして、自分の妻と目を見交わした後、男を促して外へと出ていこうとした。出ていく直前に少年の方へ振り返って、お前も来るか、と声をかけた。
 すると少年は首を横に振った。
「いい、お祖父ちゃんといる」
 病室には、横たわったままの老人と少年、そして看護士と、隠れている瑠璃の四人が残された。やがて看護士が、モニター画面のスイッチを押した。すると電子音が止んだ。
「音、消しますね。装置はちゃんと、作動してますから。…先生を呼んできます。すぐ戻りますけど、何かあったら、ナースコールで呼んでください」
 気遣うような声音でそれだけ言うと、看護士も病室から姿を消してしまった。病室には、老人と少年、そして瑠璃の三人きりになってしまった。
 瑠璃の存在に気づいていない少年は、老人の枕元から足元の方へと移動した。そして、むき出しになった老人の足に恐る恐る触れると、優しい手つきで撫で始めた。老人の蝋細工のようなうす黄色い足には、青や橙色をした、細かな斑点のようなものがいくつも浮かんでいた。
「ね、お祖父ちゃん。最後に一緒にごはん食べたのいつだったっけ?」
 老人の返答はなかった。それを気にも止めない様子で、少年は言葉を続けた。
「もしかしたら、もう何年も前かな。お祖父ちゃん、ぼけちゃってからずっと、一人で自分の部屋で食べてたもんね」
 外の廊下から、子どもの笑い声と、ぱたぱたと走る足音が聞こえてきた。それに続いて、それをしかりつける女の人の声が響いた。
「昔はさ、よくお祖父ちゃん、漬け物漬けてくれて、二人でおやつ代わりに食べたよね。俺、今まで食べたどの漬け物よりも、お祖父ちゃんの漬けたのがいちばん好きだよ」
 戸棚の蔭では、作り物めいた微笑みを浮かべたまま、瑠璃が手の中の鉢をじっと見つめていた。彼女が待つ“そのとき”は、まだやってこない。
 その後も少年は、聞いているかもわからない相手に向かって、ぽつりぽつりと思い出話をし続けた。その間もずっと、いとおしげに、いたわるように、老人の足を撫で擦っていた。
 少年の、老人との思い出はまるで尽きることがないように、延々と続いた。しかし、やがて話のネタが尽きたのか、少年は黙りこんでしまった。
 と、少年が、じっと老人の顔を見つめた後、絞り出すような声で言った。「ねえ、お祖父ちゃん」
 少年はドアの方に目をやって、誰もやってこないのを確かめてから、再び老人の方へ向き直った。
「お祖父ちゃんが救急車で運ばれた日のことなんだけど。俺、お祖父ちゃんの部屋の前通ったときに、聞いてたんだよ。お祖父ちゃんが変な咳してたの」
 最後の一言を口にしたとき、少年の声は少し震えていた。瑠璃はじっとしたまま、戸棚の蔭に立ち尽くしていた。瑠璃が待ち望む“そのとき”はまだ来なかった。
「そのとき俺、ああ、お祖父ちゃん、また吐いたのかな。後片付けめんどくさいな。お母さんが帰ってきたらきっとお祖父ちゃんの様子を見に行くだろうから、お母さんに押し付けちゃえって、聞こえなかったふりしたんだよ」
 少年の目には涙が滲んでいた。
「あのとき俺が様子を見に行ってたら、お祖父ちゃん、こんなことにならなかったかもしれないのに。お母さんが帰ってきて、お祖父ちゃんの部屋で叫び声あげて、救急車呼んで、そのままお祖父ちゃんと病院に行って、一晩帰ってこなかった間じゅう、俺、恐くて恐くて仕方なかったんだよ」
 そこまで言ったとき、少年の目から涙が一筋つたい落ちた。心電図の示す波形は、ほとんど見つけられないほど小さなものになっていた。
「ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい」
 その瞬間、瑠璃は戸棚の蔭から姿を現した。そして老人の横たわるベッドの、少年とは反対側に立った。
 少年がぎょっとした様子で瑠璃を見た。それには構わず、彼女は鉢を片腕で抱え直すと、空いた方の手で老人の手を握った。
 次の瞬間、瑠璃は感嘆のため息を吐いた。 今まさに“そのとき”が訪れたのだった。
 鉢の中で、花のつぼみがぴくりと動き、その頭をもたげた。ゆっくりと、花びらが一枚、また一枚と開いていく。
 いつの間にか鉢の中には、深い青色をした美しい花が咲き誇っていた。形は薔薇の花に似ていたが、その花びらはガラス細工のように透きとおり、冷たい光沢を放っていた。その花を、瑠璃はうっとりと眺めた。
 モニター画面には、少し歪んだ真っ直ぐな線だけが映し出されている。人工呼吸器の音だけが、部屋の中に虚しく響いていた。
 作り物めいた微笑みを浮かべたまま、瑠璃は少年をじっと見つめた。うろたえた様子で、少年は目の前の少女を見つめ返した。
「お祖父様は、お亡くなりになりました。魂は、この花に写し取って持っていきます。……あなたのこと、恨んではいないようですよ。こんな花を咲かせる、とても澄んだ、美しい魂の持ち主ですもの。怒りや恨みを持っているはずがないわ」
 これで彼女の仕事はおしまいだった。瑠璃は病室を出ていこうとした。
「待てよ!」
 そう言って、少年は瑠璃を追いかけた。瑠璃の肩を掴もうとしたが、彼の手は彼女の肩をすり抜け、宙を掴んだだけだった。
 そのときドアが開き、医師と看護士とが病室へ入ってきた。その隙に、瑠璃は病室を飛び出した。入ってきた二人に真正面からぶつかるように出ていったが、彼女の身体はするりと二人を突き抜けていった。
「死神だ!あいつ、死神だよ!」
 少年が声を上げるのを尻目に、一目散に瑠璃は廊下を駆けていった。

 * * *

 壁も床も天井も、すべてが白く滑らかな大理石でできた細い廊下を、瑠璃は黙々と歩いていた。胸には、瑠璃色の美しい花が植えられた鉢を大切そうに抱えている。
 廊下はしんとしており、彼女のほかには誰もいない。と、廊下の突き当たりに差し掛かかった。突き当たりでは、白い絹の帳が、微かな風にふわふわと揺れていた。
 その帳を、瑠璃は片手でそっと押し退け、その向こう側へと足を踏み出した。鋭い光が瑠璃の目を刺し、彼女は眩しそうに目を細めた。
 帳の向こうは、白い大理石で造られた、円形の広場だった。
 ぐるりを取り囲む壁には、先ほど瑠璃が通ったような、絹の帳で遮られた入り口がずらりと並んでいる。中央には巨大な噴水が据えられ、そこから噴き出す水が飛沫をあげ、虹色の光を辺りに振りまいていた。
 噴水の周囲の広い水溜めには、色とりどりの花の咲く鉢が無数に並んでいる。花たちは、噴水から流れ落ちる水の微かな波にたゆたいながら、まるで心地よい夢でも見ているように、その瑞々しい花を天へと開いていた。
 瑠璃はその縁に立つと、抱えていた鉢をそっと水の中へと沈めた。そして、そっと花に囁きかけた。
「疲れたでしょう。ゆっくり、おやすみなさい。…また、種子(たね)をつけるまで」
 水の中に落ち着くと、もとより美しかったその花は、その輝きを増したようだった。
「あら、瑠璃じゃない」
 瑠璃は顔を上げた。瑠璃の目の前には、鮮やかな赤色の小振袖を来た、ポニーテールの少女が立っていた。少女も瑠璃と同じく、花の植えられた鉢を胸に抱えていた。少女の鉢に咲いているのは、その着物よりもずっと柔らかい朱色をした花だ。
「あら、瑪瑙(めのう)。……久しぶり」
 驚いた様子で、瑠璃は言った。瑪瑙と呼ばれた少女は瑠璃のかたわらにしゃがみこむと、自分の鉢を瑠璃が置いた鉢の隣に沈めた。ちゃぷん、という音がして、鉢からいくつも水泡が生じた。
「この子たち、気が合いそう」
 そう言って瑠璃の方を向くと、無邪気な笑顔を浮かべて言った。
「ほんとうに、久しぶり。担当地区が離れてしまってから、ずっと会えなかったものね」
 相変わらず作り物めいた微笑みを浮かべながら、そうね、と呟いて瑠璃は頷いた。瑪瑙が、じっと彼女を見つめてから言った。
「ね、何かあったの?なんだか少し悲しんでるみたい。もっとも、あなたっていつも作り笑いばかりしていて、ほんとうに嬉しそうにしているところなんて、見たことないけれど」
 はっとした様子で、瑠璃は瑪瑙を見つめ返した。少しためらった後、瑠璃は口を開いた。
「実は久しぶりに、私たちのことが見える人間の子どもに会ったの。今回お迎えした人の、お孫さんだったんだけど……そのとき、その子がお祖父様にだけ聞かせようとした話を、私、きいてしまったの。それで、仕事の後、つい声をかけてしまった。あの子、とても驚いていたし、なんだか少し怒っていたみたい。それと…」
 そこまで言って、瑠璃は口をつぐんだ。しかしすぐに思い直した様子で言葉を続けた。
「また、“死神だ”って、言われてしまった」
 小さくため息を吐いて、瑪瑙が言った。
「また、そんなこと気にしてるの。彼らが勝手につけた呼び名なんて、気にしてもどうしようもないでしょうに。確かに、私たちには“花守人”っていう立派な名があるし、“死神”なんて……まるで人間たちに死を呼び寄せる存在みたいな名前、あまり気分のいいものではないけれど……」
 そこまで言いかけた瑪瑙を遮って、瑠璃は言った。
「そうではないの。私が嫌なのは、呼び名自体ではないの。その名で私たちを呼ぶときの、人間たちの言い方や、まるで禍々しい、不吉なものを見るような眼差しが、辛いの」
 ひとつ息を吐いてから、瑠璃は続けた。
「私たちのやっていることって、そんなにいけないことなのかしら」
「まさか!」瑪瑙が叫び声を上げた。
「そんなわけないでしょう。……人間の命が尽きるとき、その魂を迎えに行き、この庭園へ連れてきて、休ませる。やがて、その花が浄化されて、新たに生まれおちた種子が水路に運ばれ、再び地上で命と身体とを得るときまで。……これが、私たちの仕事。もう何百年、何千年も前から……人間たちが、ほかの生き物たちと比べ、あまりにも明確すぎる自我を持ち始めた頃からの、私たちの仕事。何千年も続いていることなのよ。いけないことなわけないじゃない」
「そう、ね……」
 心もとなげに呟いた後、瑠璃は言った。
「それでも、ときどき考えてしまうの。なんのために、いったい誰が?私たちを生み出し、そしてこの庭園を、そしてここ以外の、人間たちの魂の休息場所とそこでの決まりごととを、造り出したんだろうって。私たちは、人間たちとよく似た姿をしているのに、人間たちと違って恋もしなければ子も作らない。どうしてなのかしら?そういったことすべてが、不思議で不思議でたまらないの」
「それこそ、人間たちが言う、“神様”ってやつじゃない?それに、私たちが人間たちみたいに、恋をしたり子をつくったりするようになったら、きっと仕事が手につかなくなってしまうわよ。永遠の命も必要なくなってしまう。考えただけでぞっとするわ。……とにかく、私たちは、私たちの存在意義である仕事を、全うし続けるしかないのよ。あなたみたいなおかしな考えに囚われて仕事を放棄した守人たちが、どんな末路をたどったか、あなただって知らないわけではないでしょう?どうしたの。ここ何年か、おかしなことばかり言ってるじゃない」
「そうね。もちろん知ってるわ。……ごめんなさい。また、変なことを言ってしまったわ」
 ふんと鼻を鳴らして、瑪瑙は言った。
「わかればいいのよ。……それじゃ私、新しい鉢を貰いに行くわ。あなたも一緒に行く?」
「ええ……」
 そう言いかけてから、思い直したように瑠璃は言った。
「その前に、私、寄りたいところがあるの。悪いけれど、鉢を受けとるのは後にするわ」
 そう言って立ち上がり、瑠璃は瑪瑙に背を向けた。その背中に、瑪瑙が問いかける。
「もしかして、また、あいつに会いに行くの?」
「ええ」
 瑠璃の返事に、彼女はあきれ返った様子で言った。
「あんな臭くて汚ないところへ、よく行く気になるわね……。ねえ、瑠璃。あんな、年がら年中鵞鳥のことしか考えてないようなやつの、どこをそんなに気に入ってるの?あいつ、仲間たちからすら、変わり者扱いされてるらしいじゃない」
 振り向きもせず、瑠璃は応えた。
「鵞鳥たちのことしか考えてないところ」
 そう言って立ち去る瑠璃の後ろ姿を見送ってから、瑪瑙は誰にともなく言った。
「どういうことかしら?守人は、同業者としか話をしないし、他の種類の守人には興味を持たないものなのに」
 そこまで言って、彼女は口をつぐんだ。そして眉をひそめて瑠璃の立ち去った方を見やりながら、ぽつりと言った。
「なんだか、不吉だわ」

 * * *

 瑠璃がそこへ入っていくと、たちまち鵞鳥たちのにおいや、餌やフンのにおいが鼻をついた。そこは鵞鳥たちの暮らす小屋だった。
 ここに暮らす鵞鳥たちは本物の鵞鳥ではなくて、あの庭園の花たちと同じく、もとは人間だった者たちだ。
 小屋の中では、ガアガアと鳴きたてる鵞鳥たちの群れに取り囲まれるようにして、一人の少年が座っていた。鵞鳥の世話番―これも守人の一種だ―の一人だった。色褪せて、裾がぼろぼろになった粗末な着物を着た、毬栗頭のその少年に、瑠璃は声をかけた。
「久しぶり、茜(あかね)」
 少年が振り返り、瑠璃を見とめると微笑んだ。
「やあ、瑠璃」
 少年は、膝に一羽の鵞鳥を抱きかかえていた。その少年の名と同じ、夕焼け空に浮かぶ雲のような、茜色の鵞鳥だった。
 瑠璃が近づいてその鵞鳥をしげしげと見つめると、茜と呼ばれた少年は言った。
「あ、この子。この冬からの新入りなんだ。人間のときは、リオって呼ばれてたんだって。きれいな色してるだろ」
「そうね」
 瑠璃が頷くと、彼は今度は鵞鳥に向かって言った。
「この子、ぼくの友だちで、瑠璃っていうんだ。僕と違って、きれいな格好してるだろ。花の守番をしてるんだって。ほら、ご挨拶して」
「初めまして、リオさん」
 瑠璃がそう言うと、茜の膝の上で首を伸ばしながら、おずおずと鵞鳥は応えた。「初めまして、ルリさん」
 鵞鳥と瑠璃とは、しばし見つめあった。その沈黙を破るように、茜が言った。
「瑠璃はもう、すぐ次の仕事へ行くの?」
「ううん。…少し、ここで休んでいってもいい?」
 かむりを振りながら彼女が応えると、茜は見るからに嬉しそうな笑顔を浮かべて応えた。
「もちろん。立ち話も何だし、座りなよ。……少し、汚ないけど」
 瑠璃が隣に座ると、茜は彼女にあれこれと質問をした。そのほとんどは、彼の知らない、人間たちの世界のことについてだった。
 人間の魂を迎えるため人間たちの元を訪れる瑠璃たち花守人と違い、茜たち鵞鳥の世話番は、この小屋で鵞鳥たちの世話をするのが専らの仕事だった。そのため彼らは、生きている人間たちの生活場所へ行ったことがなく、人間たちの生活について何も知らないのだ。
 瑠璃は問われるまま、人間たちのことについて話した。茜の質問に瑠璃が答え終わると、今度は茜が話し出す番だった。
 彼の話は、徹頭徹尾、鵞鳥たちのことばかりだった。世話のやり方やコツ、かつてここにいたもののうち、茜の印象に残っている鵞鳥たちのこと、そしてリオを仕入れたときのこと……。
 茜の話を熱心な様子で聴いていた瑠璃が、突然くすくすと笑い始めた。茜が不思議そうにどうしたのかと尋ねると、彼女は言った。
「茜はほんとうに、四六時中、鵞鳥たちのことで頭がいっぱいなのね。私のことなんて、まるで興味がないみたい」
 この言葉に、茜は少し考えてから、応えた。
「もちろん。鵞鳥たちの世話をするのが、ぼくの仕事なんだから、当然だろ。…でも、今は瑠璃のことも、少し考えてるよ」
「話してる最中に話し相手のことを考えるのって、普通のことよ」
 あきれた様子でそう言った瑠璃を、茜は驚きに目を円くして見つめた。
「そうなの?」
「そうよ」
 瑠璃が頷くと、茜はためらいがちに応えた。
「ぼく、今まで、人と話すときは、鵞鳥たちのために話さないといけないことしか、考えてなかったよ。相手が何を考えてるかなんて、気にしたことなかった。でも近頃、瑠璃と話してるときは、用もないのに、瑠璃は今何を考えてるんだろう、瑠璃の目に世界はどんな風に映っているんだろう。……どうしたら、瑠璃は笑ってくれるんだろうって、気づくといつも考えてる」
「どうして?」
 瑠璃が問うと、しばらく頭を抱えこんだ後、茜は応えた。
「自分でもよく、わからないけど……。瑠璃が、鵞鳥たちに似ているせいかもしれないよ」
「私が、鵞鳥に?……どこが?」
 腕組みをして、口をへの字に曲げたまま、考え考え、茜は応えた。
「ふわふわした髪の毛が、鵞鳥の羽毛みたいだ。それに、何度も何度も、用もないのにここへ来て、会うたびぼくに話しかけてくるじゃない。ぼく、ほかの守人たちとはあまり仲良くなれないけど、鵞鳥たちにはなつかれるんだ。…だから、瑠璃は鵞鳥に似てると思う」
 茜のこの言葉に、少し面食らったような顔をしたあと、瑠璃は声をあげて笑った。それまでの作り物めいたものとは違う、本物の笑顔と笑い声だった。
 彼女の役目は、ただ待つことだった。世界が動き出す、そのときが来るまで。

Fin.

◆あとがき◆
 初めまして!or毎度ありがとうございます!
 最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。
 オフラインの友人・知人たちからは、もっぱら電波と大評判の、Gloomy_Weaselと
申します!
 またまた例のごとく異次元なお話を書かせて頂きました。(えっ、今回初めてあなたの作品読みました?これは失敬!)
 こういった、登場人物への感情移入を意識的に避けて、幻想のイメージで遊ぶような作品作りは久しぶりで面白かったです。

「人の身体は、ある程度までいくと成長が止まってしまいますが、心は、死の間際まで成長するのです」

 高校生時代、ある医療関係者の方が講演中に発したこの言葉にインスピレーションを得て以来、ずっと暖めていたお話。
 数日前、とうとう主人公の瑠璃に捕まり「書いて」とせがまれ、逃げられなくなってしまいました。
 他作品の登場人物も引っ張りこんで、ちょっと続きをにおわすような感じて着地してしまいましたが、今のところ全く続編の予定はありません!(オイ)
 少しでも、皆様に楽しんで頂けましたら幸いです。
 ではでは!

表紙画像 (C)柴桜さま 「いろがらあそび1/2」作品No.28
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=56687725

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