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幻想生物2.水妖/水辺の証人(上)

――ねえ、本当にそれでいいの?――
 幼い頃に起こったある事件から、男性恐怖症になってしまった少女・加与子。
 学校に飾られたいわくつきの絵に魅入られた瞬間から、堅く閉ざされていた心の扉が開き始める……

 架空の女子校を舞台にした,オムニバス形式の短編連作第二弾です.
 1編1万~2万文字程度を目安に区切っていく予定.
 よろしければお付き合いを.

◆本編

 梅雨の最中(さなか)の教室は、閉じ込められた生徒たちの体温と相まって溶けるような蒸し暑さだった。空気がべったりと肌にまとわりつくように息苦しくて、まるで温度調節を間違えた水槽の中に放り込まれたみたいだと加与子(かよこ)は思った。
「ねえ、小夜」
 加与子が囁くと、彼女の視界を遮っていた赤茶色の頭がくるりと振り向いた。髪より少し黒みがかった茶色の瞳が加与子を真っ直ぐに見据える。彼女――柳川 小夜(やながわ さよ)――がいつも身にまとっている独特の香りが鼻を突いた。
「なあに?」
 その涼しげな眼差しと奇妙に落ち着いた声とで、危うく目下の蒸し暑さを忘れそうになった加与子だった。しかしすぐさま我に返って言った。
「さっきの子、K組の垣崎(かきざき)さんでしょ」
「うん」
 こともなげに応える友人を、加与子はわざと恨めしげに睨みつけた。
「いつの間に、漫画を貸し借りするほどお近づきになったんですか」
 もともと友人を作ることに無頓着な彼女が、自分以外の誰かと親しげに話すところを見るのは初めてだった。しかもその相手が、友人との接点など見当たらず、とりたてて目立つところもない、どちらかといえば地味で大人しい部類に入る子だったから、なおのこと引っ掛かったのだ。好奇心からの質問だったが、いくらかやきもちを焼いていた部分はあったかもしれない。
「たまたま同じ電車に乗ったことがあって、それでなんとなく」
 二週間ほど前に、学校近くの駅で、二人が深刻な様子で何か話し込んでいた、という噂を耳にしたことを加与子は思い出した。口を尖らせて彼女をなじる。
「浮気者」
 少女はため息を吐きながら言い返す。
「何言ってんの。あんた、彼氏いるでしょ」
「彼氏って誰のこと?」
 きょとんとして問い返すと、少女が急に顔を近づけた。その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「恵一(けいいち)さん、だっけ?あんたの大好きな、従兄のお兄さん」
 加与子は慌てふためいて言った。
「恵ちゃんは、そんなんじゃありません。小さい頃から、勉強見てもらったりして色々お世話になってただけで……今は離れて暮らしてるし、もう何年も会ってないよ。それに、彼氏なんて、あたし、いらない」
「あんた、いっつもそれだよね。そんなことばっかり言ってると、恵一さん誰かにとられちゃうよ」
 意地の悪い笑みを浮かべてそう応ると、少女は正面に向き直った。なおも食い下がろうとした加与子だったが、その直後に教室の扉が開き、数学の担当教員が姿を現したため、二人の会話は中断されてしまった。

 * * *

 数学の次は音楽の授業だ。その日は歌のテストで、他の生徒たちと雑談をしつつ、加与子は自分の順番を待っていた。課題曲は『六月の花嫁』という学校オリジナルの曲。歌の中に登場するのは、しとやかで、上品で、おくゆかしく、風が吹けば飛んで行ってしまいそうなか弱さと、男性の三歩後ろを黙って歩いていくようなひかえめさを持つ女性。いかにもお嬢様学校らしい、古式ゆかしい女性美を褒め称える内容のものだった。
 同級生の何人かが、こんなの時代遅れすぎてネタだよね、などと茶化しているのを、加与子は苦笑いして聞き流した。そんなことないのになあ、少なくとも私はこういう花嫁さんって憧れるけどなあ、などと心の中で独りごちる。ふと、憧れの従兄がタキシード姿で自分の隣に立っている光景を想像して、思わず顔が熱くなった。
 とっさに傍らの小夜をちらと盗み見た。同級生たちの会話にはあまり興味がならいしく、欠伸まじりに教科書のページをぱらぱらとめくっている。
 少し俯き加減のその横顔には、少女らしい柔らかさや朗らかさの代わりに少年めいた硬さと鋭さとが感じられた。この友人には間違いなく、純白のドレスよりタキシードの方が似合うだろう、と加与子は思った。
 ふと、視線を感じて加与子は振り返った。見知らぬ少女と目が合った、と思いぎょっとしたが、よく見るとそれは、壁に掛けられた大きな絵画だった。
 そこに絵があることは知っていたが、気にとめたことなどなかったのだ。なんとなく目を引かれて、加与子はその絵画をじっと見つめた。
 深い緑の森を背景にして、中央には明るい水色やうす紫、そして灰色といった淡い色のグラデーションで描かれた湖が広がっている。ほとりの草地に点々と顔を覗かせるのは、白や黄色や薄ピンクといった優しい色合いの小さな花々。そして画面の右手手前に佇むのは、白いワンピースに身を包んだ十歳前後の少女。少女の髪は艶やかな黒髪だった。水の中に膝まで浸かり、両手一杯に白いユリの花束を抱え、つぶらな黒い瞳でこちらをじっと見つめている。
 絵のすぐ下に掛けられたプレートには、“水妖(ウンディーネ)”と書かれていた。
 どこかおどろおどろしくて、けれども幻想的なその絵は、よくよく眺めまわしてみると、ため息が出るほど美しかった。絵の中に吸い込まれてしまうような感覚を覚えて、加与子はとっさに目を瞑った。
「加与」
 不意に名を呼ばれ、加与子は我に返った。慌てて向き直ると、小夜がこちらをじっと見上げていた。
「あ、小夜。ごめん、なに?」
「もうすぐあんたの番だって、さっきから言ってるじゃん。なにぼさっとしてんの」
「あ……」
 見ると、加与子の二人前の生徒が準備室から出てくるところだった。二人のやりとりを聞いていた同級生の一人、天野 順子(あまの じゅんこ)が言った。
「沼沢さん、あの絵見てたの?」
「あ、うん。今まであんまり気にしてなかったけど、キレーな絵だね。誰が描いたんだろう」
 まだいくらか夢見心地のままそう応えると、天野順子はクスクスと笑った。
「確かにきれいな絵だよね。ちょっと怖いけど」
「タイトルの“ウンディーネ”って、何のことかな」
 誰にともなく加与子が問うと、それまで無関心を装っていた小夜がぽつりと言った。
「西洋の妖怪よ。人の姿をした、水の中に棲む妖怪。人間と恋に落ちることもあって、望めば人間になれるんだけど、もしも水辺で恋人がそのウンディーネを罵ったりすると、ウンディーネはたちまち魂を失ってしまうんだって」
「柳川さん、詳しいね。そういうの好きなの?」
 天野順子がすかさず喰いついた。
「別に。たまたま知ってただけ」小夜がそっけなく応える。
「ふーん。……ところで沼沢さん、その絵、あんまり見ないほうがいいよ」
「どうして?」
 目を円くして尋ねると、声を潜めて天野順子は応えた。まるで、絵の中の少女にでもはばかるように。
「先輩からきいたんだ。あれ、十年以上前にうちの卒業生が描いたんだって。絵の中の女の子はその人の妹さんがモデルらしいけど、この絵ができてしばらくしてから、事故で亡くなったんだって」
 そこまで言うと、少女は言葉を切った。
「それで?」
 加与子が促すとさらに声を潜めて続けた。
「それ以来ね、絵の中の女の子が少しずつ、画面のこっち側へ近づいていってるんだって。もともとは、湖の向こう側にいたはずなのに。……ほら、今は画面のこっち側にいるでしょう?誰かの身体を借りて生き直すために、自分に目を留めてくれる人を待ってるんだって」
 そこで言葉を切ると、天野順子は突然叫び声を上げて加与子に抱きついてきた。驚いて思わず叫び声を上げた加与子を見て、その場にいた生徒たちが大声で笑い始める。
「もう、順子。またそうやってホラ話で人を怖がらせて。沼沢さん、ほんとに恐がってるじゃん」
 そう諫めたのは天野順子と仲の良い、学級委員の五月 純子(さつき じゅんこ)。
「嘘じゃないでーす。これはほんと」
「はいはい」
 二人のやり取りを見て、恐る恐る加与子は言った。いつの間にか、目に涙が滲んでいるのに気がつく。
「今の、嘘なの?」
 口を開きかけた天野順子を遮って五月純子が言った。
「あたりまえでしょ。そんなやばい絵だったら、こんなところにいつまでも飾ってるわけないじゃん」
「なんだ……」
 ほっと安堵のため息を吐いた加与子だった。そっと絵に目をやる。そのとき、ふと、絵の中の少女と目が合ったように思えたのは、加与子の気のせいだったのかもしれない。

 * * *

 放課後、駅へ向かう小夜と校門で別れ、加与子は家路を急いだ。商店やオフィスビルが立ち並ぶ通りを過ぎると、やがて閑静な住宅街へとたどり着く。そこを過ぎた先にある水園(みずぞの)という街に加与子の家はあった。
 その一帯はいわゆる高級住宅街。一軒一軒、厳めしい門に、洒落た柵や塀、広い庭を持ち、平日の日中などほとんど人気がない。
 鉄線の蔦絡みつく黒い鉄柵の向こう側、白亜の屋敷を横目に通り過ぎる。不意に何かに頭上から傘を突かれつと見上げると、金木犀の木が塀を越えてその枝先を精一杯に伸ばしているのに出くわした。その先にある角の家の庭先では、色とりどりの紫陽花が雨に濡れつつ、今を盛りと咲き誇っている。
 ひとつひとつの庭先を目で追いながら歩いていた加与子は、突如眼前に現れた“工事中につき通行止め”の看板に顔を曇らせた。朝はこんなものなかったのに、と心の中で呟く。
 いつも通っているこの道が使えないのなら、家へたどり着く道は一つしか残っていない。そこは加与子にとってできるだけ避けたい道だった。たっぷり十分ほども悩んだ後、加与子は踵を返した。
 いつもは通らないその道をわき目もふらず歩き続けた。右手には住宅街、左手には鉄柵に囲まれた、鬱蒼と樹々の生い茂る公園。
 運動公園として設置された公園だったが、敷地内には様々な植物が植えられていて、春は桜やチューリップ、夏はつつじや藤に紫陽花、秋は紅葉や山茶花、冬は松、と、四季折々に人々の目を楽しませる工夫がなされている。敷地の奥には噴水を備えた人工の池や亭(あずまや)まであり、休日には多くの人が訪れるちょっとした行楽地だった。
 しかし、今日は平日、雨模様ともあって、公園内に人の気配はなかった。と、奥の一角に、ちらりと人影が見えたような気がして、加与子は足を止めた。目を凝らして見ると、長い黒髪の、小学生くらいの少女の後ろ姿があった。小学校の下校時刻はとうに過ぎている。ここにいても不思議なことではなかった。しかし、こんなところでたった一人で、どこへいくつもりなんだろう、と加与子は訝った。
 そういえば、あの一件があったのも、丁度こんな天気の平日だったっけ。そんなことを想い起しながら、そそくさと立ち去った。まるで水の中を歩いているように息苦しく、足は奇妙に重かった。

 * * *

 やがて公園を通り過ぎ、自宅へと帰り着いた。玄関に入った加与子は、足元に目を落としてぎょっとした。土間は水浸しで、廊下にも点々と水溜りができている。加与子は一人っ子で、父と母と自分の三人家族。ペットの類も飼っていない。いったい誰の仕業だろうかと首を傾げた。
 ふと、土間に見慣れぬ男ものの靴を見とめた。続いて居間の方から、母の笑い声と、聞き覚えのある男の人の声が聞えてくる。その声の主を悟った瞬間、加与子の胸は高鳴った。
 靴を脱ぐのももどかしく廊下に上がる。忍び足で居間までたどり着くと、そっとドアを開けた。居間を覗きこんだ加与子は、そこに母と従兄の恵一の姿を見とめた。思わず喜びに顔を輝かせながら言った。
「ただいま」
 すると、それまで談笑していた母と恵一が揃って加与子に目をやった。恵一がソファから立ち上がり、加与子の方へ歩み寄る。三年ぶりに再会した従兄は、見慣れぬスーツ姿だった。
「久しぶり。元気そうだね」
「恵ちゃんも、久しぶり。どうしたの、S県にいるはずでしょう」
 そう言って、加与子は従兄を見つめた。今年大学四年生の従兄は、しばらく見ない間に随分と身体つきがしっかりして、顔つきも大人びたように思えた。従兄を前に自分が緊張していることに気がついて、加与子は戸惑った。
「もともと長い方だったけど、髪、伸びたなあ。天パなのは相変わらずだけど」
 そう言いながら、恵一が加与子の頭に手を伸ばした。とっさに身を引いて逃げ出したい衝動に駆られたが、懸命にこらえて恵一に髪を触らせた。触られている間、なんとなく落ち着かない気分のまま、ずっと心臓がドキドキ音を立てていた。
「恵ちゃんね、こっちで就職するつもりなんだって。それで、挨拶代りにうちに顔を出してくれたの。これから一週間くらい、こっちにいるそうよ」
 母の言葉に、加与子はいっそう顔を輝かせた。「ほんと、恵ちゃん?」
 廊下の水溜りのことなど忘れかえったまま、しばらく従兄と近況の報告などし合った。その後、加与子は従兄を見送るため、玄関先までついて行った。そのとき、水溜りがすっかり消えているのに気がついて、加与子は思わず声を上げた。
「あれ?」
「どうしたの」
 振り向いた従兄に加与子は言った。
「帰って来たとき、廊下、水で濡れてたのに……。玄関の土間も水浸しで」
「乾いたんじゃない?……でも、俺が来たときは、玄関も廊下も、濡れてなかったけどなあ。かよちゃんが帰ってくる十分かそこら前だよ。その後はかよちゃん以外誰も来なかったし」
 従兄の言葉に加与子は耳を疑った。
「嘘……?」
「嘘じゃないよ。叔母さんにもきいてみなよ」
 恵一がわずかにむっとした様子を見せた。彼の機嫌を損ねることを恐れて、加与子は慌てて言った。
「やだあ、恵ちゃんが嘘吐くわけないじゃん。多分、あたしの見間違いだと思う」
 そう言いながらも、その光景が見間違いや記憶違いの類いでは決してないことに、加与子は気づいていた。自分が見たあの光景はいったいなんだったのだろう。そんなことを考えていると恵一が言った。
「ところでさ、かよちゃん。まだ、あの公園が怖い?」
 急に、加与子は息苦しさを覚えた。“あの公園”とは、加与子が帰りに近くを通った、あの運動公園のことだ。
「うん。ちょっと」
 小学校三年生のとき、加与子はあの公園の奥にある池のほとりで、変質者にいたずらされそうになったのだ。幸いそこを通りがかった高校生に助けられて無事だったが、未だ犯人がわからないこともあって、あの公園に近寄るだけで身体の力が抜ける心地がするのだった。男性に対する恐怖心が植え付けられてしまったのも、このときからだ。
 そのとき助けてくれた高校生というのが恵一だった。犯人と戦ったとき、彼は額の左側に傷を負った。彼の額には、まだその跡が残っている。
「実際、何もされなかったんだろう?そろそろ、忘れないと」
「そうだね……」
 曖昧な返事をして加与子はその場をやり過ごした。
 と、踏み出した足に、何かひんやりとしたものがまとわりつくのを感じた。慌てて目を落とすと、乾いているはずの廊下に、いつの間にか大きな水溜りができていた。
 その水溜りを覗きこんだ加与子は、その底に幼い少女の顔が浮かんでいるのに気がついた。今日、音楽室で目にした絵の少女と似ていた。
 思わず小さく叫び声を上げて後ずさりした加与子だったが、次の瞬間、従兄に名を呼ばれ我に返った。
「加与ちゃん、どうしたの?」
「そこに、水溜りが……」
 動転したままそう告げて足元を指さすと、その先に目を落とした従兄が怪訝な顔で言った。
「水溜り?そんなもの、どこにあるの」
「え?」
 慌てて足元に目をやると、そこにあったはずの水溜りも、少女の顔も、消えていた。

 * * *

「ねえ、小夜。きいてる?」
 ふくれっ面で加与子は言った。
「はいはい、きいてます。あんたの彼氏がかっこいいって話でしょ」
 数学のプリントに取り組む手を止めずに小夜が応える。
「だから、彼氏じゃないって。従兄だってば。……かっこいいってのは当たってるけど。昨日、久しぶりに会った恵ちゃん、かっこよかったなあ、しかもスーツ姿。何かこう、“男の人”って感じで……」
 うっとりと話し続ける加与子に背を向けたまま、小夜がぴしゃりと言った。
「加与。今あんた、手止まってるでしょ。いくら自習で先生いない、つったって、このプリント後で提出しないといけないんだよ。わかってる?あたし、後で慌ててやるの嫌いなんだよね」
「わかってますよ」
 少しふてくされながらも、加与子は目の前に置かれた白紙のプリントに意識を向けた。担当の教員が急な怪我で授業に出られなくなり、自習になったのだ。中には真面目に課題をこなす生徒もいたが、加与子たちに限らず、ほとんどの生徒たちは課題になど見向きもせず雑談に興じていた。
 笑い騒ぐ生徒たちを尻目に黙って課題を進めていると、やがて小夜が振り向き、口を開いた。
「ね、加与」
「なあに」
 とっさに手を止めて友人の顔を見やった。探るような眼差しと出くわして、加与子はどぎまぎした。
「ヘンなこときくけど、あんた、“恵一さん”のこと、なんでそんなに好きなの?あんなに普段、男は嫌だ嫌だって言ってるのに。そのくせ付き合う気もないみたいだし」
「それは……」
 命の恩人だから……そう言おうとして、加与子は躊躇った。その説明をしようとすれば、あの事件のことも話さなければならない。それだけは避けたかった。
 小夜とは中学からの付き合いだ。その件に関して、中学以降知り合った子には、決して知られないようにしていた。それを知らないからこそ、加与子は彼女と友人でいられるのだ。小学生の頃、事件について知った子は、みんな加与子から離れて行ったのだから。
「それは?」
 小夜が静かに詰め寄るのと、授業終了のチャイムが鳴り出すのとはほとんど同時だった。
「次、音楽だよね?」
 それだけ言って、加与子は手早く机の上を片付け、道具を手に教室を飛び出した。
「ちょっと、加与……」
 丁度そのとき、同級生の一人が小夜に話しかけた。委員会に関する話らしかった。これ幸いとばかりに、加与子は一人第一音楽室へと向かった。

 * * *

 第一音楽室には誰もいなかった。前の授業で使われていたのか、鍵は開いたままだった。しんと静まり返った教室の中へ加与子はこわごわ入り、そっと戸を閉めた。降りしきる雨で窓の外の景色は白くけぶっている。
 さっきは誤魔化せたけど、この授業が終わったら、どうしよう……。そんなことを考えながら、加与子はため息を吐いた。昔の事件のことを話す勇気はなかったし、恵一のことについても、加与子自身、自分が彼に抱いている気持ちがどういった意味を持つのかわかっていなかった。
 恵一とは物心つく頃からの付き合いで、幼い頃は毎日のように遊んでもらっていた。一人っ子の加与子にとって、彼は兄のような存在だった。少し気難しいところがあって、思いがけないことでひどく腹を立てたりするところもあったが、大概は面倒見がよく遊び好きな“優しいお兄さん”だった。
 会えば嬉しいと感じるし緊張もする、多少無理をしてでも、できる限り気に入られるように振舞いたいし、機嫌を損ねて怒らせたり嫌われたりすることには耐えられない。けれども、“好きな人”がいる他の同級生たちのように、そこからなんとしてでも踏み込んだ関係へ、といった考えを抱くことはなかった。
 恵一に会う度感じる、胸の奥がさざ波立つような不思議な感覚に想いを馳せる。思えば、祖父や父を除くと、彼以外の男性と、ほとんどまともに口をきいたり遊んだりした経験がないのだ。会えば必ずといっていいほど自分のことを“理想の女の子”だと褒めてくれる恵一。恋愛感情、というよりも憧れといった方がいいのかもしれない、と加与子はふと思った。
 自分の席に着き授業の仕度を始めた加与子であったが、ふと視線を感じて振り返った。その先には前回と同じく、あの絵画があった。にわかに天野順子の話と謎の水溜りのこととを想い出し、つい身震いした。恐いもの見たさに近い気持ちで、じっと絵の少女を見つめる。
 記憶にあるものと比べてみたが、少女がこちらへ近づいているのかどうかはよくわからなかった。ただ、はじめて目にしたときと同じように、懐かしいような、引き込まれるような不思議な感覚を覚えただけだった。なんだかこの絵、あの公園の池の景色と似ている、と加与子はふと思った。
 雨音を聞くともなしに聞きながらその絵を眺めていると、急に少女の顔から目が離せなくなった。まるで金縛りにでもなったようだった。
 懸命に別の場所へ視線を移そうとしても、頭も首も目も、固定されたように動かない。ほとんどパニック状態に陥りながら、加与子は叫び声を上げようとしたが、それもできなくなっていた。
 気がつくと教室は水で溢れかえり、加与子はプールの底に沈んでいた。声の代わりに、口から大きな気泡がぼこぼこと音を立てて飛び出し、頭上へと昇っていく。
 そのとき、急に絵の少女が瞬きをしたように見えた。と思うと、いつの間にか少女の血の気のない顔が目の前にあって、自分の顔をじっと見つめていた。少女の目は暗く、深く、まるで何も映さない底なし沼のようだった。
 頭の中が真っ白になった加与子だったが、次の瞬間少女の口が開き、幼い声が耳に届いた。
――思い出して。ねえ、殺さないで――
 その意味がわからず、少女の顔を見つめ返した。少女が再び口を開く。
――証人になって――
 と、そのとき、誰かに肩を掴まれて、加与子は我に返った。
「沼沢さん、どうしたの?……わ、汗びっしょりじゃん」
 見ると、天野順子が立っていた。まだ心臓がバクバクと音を立てている。教室の中を見回してみたが、水はすっかり引き、加与子と天野順子の外には誰もおらず、絵の少女も元通り額の中に納まっていた。
「天野さん……なんでもないよ。教室からここに来るまで走ってきたから、それで汗かいちゃったんだと思う」
 我ながら苦しい言い訳だ、と思いながらも作り笑いを浮かべて言った。自分が今見たものは、いったい何だったんだろう。疲れて幻でも見たのだろうか。加与子は危ぶんだ。
「元気だね……。沼沢さん、またあの絵見てたでしょ。そんなに気に入ったの?」
 少し困ったような顔をして、天野順子は言った。
「あ……」
「やめといた方がいいよ。言っとくけど、この間あたしが話したこと、嘘じゃないから。それに……」
「それに?……まだ、何かあるの?」
 思わず身を乗り出し、早口になりながら加与子は問い詰めた。驚いた様子で天野順子が加与子を見る。しばらく口ごもった後、天野順子は声を潜めて話し始めた。
「まだ描いた人もその家族もこの街にいるから、他の人には言っちゃだめだよ。……このモデルの妹さんの死因、事故だったって前に言ったでしょ」
「うん」加与子はこくりと頷いた。
「どういう事故かっていうとね、水死。ほら、水園の辺りにおっきい公園があるでしょ。そこの池で溺れたんだって」
 加与子は愕然として天野順子を見た。彼女の心のうちを知ってか知らずか、目の前の少女は平然と続けた。
「しかも、実は事故じゃなくて、事件だったんじゃないかって噂もあるの」
「事件?」
 息苦しさを覚えながら、加与子は呟いた。頭から顔からみるみる血の気が引いて行く。
「その子、亡くなる前にいたずらされてたんじゃないかって。その子が亡くなった日、家族以外の男の人と二人で公園に入って行くのを見た人がいるらしいよ。未練とか恨みとか、絵の中に残っているかもしれない」
 そこまで聞いたところで、加与子は意識を失った。意識を失う刹那、目の端に捉えた絵の少女は、うっすら笑っているように見えた。

(続)

カバー画像(C)柴桜さま 『いろがらあそび6』作品No.15
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=65680493

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