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野良、始めました。

――どちらに転がるにしても、相応の覚悟は必要だよ――
かつて「囲われ者」でありながら、自ら望んで「宿なし」の道を選んだ一匹の猫。
今わの際に恩師がもらした一言が、過去の記憶を呼び起こす。

ヒューマンドラマというか,ニャーマンドラマ?
よろしければ,お付き合いを.

――どちらに転んでも、相応の覚悟は必要だよ――
 そう言って、その年寄りはこと切れた。路上で途方に暮れていた俺に、生きる術を色々と教えてくれた、親切な奴だった。
 若い頃はどこかで囲われていたらしいが、そこから逃げ出し、最後は土の上で大往生。今どき珍しい幸せ者と言える。
 俺はそいつの躯を引きずって、木陰の草むらに隠した。俺たちにとって、死んだ姿を通りすがりの見知らぬ連中に見られるなんて最大の屈辱だ。念のため身体の上に落ち葉を被せてから、爺さんに別れを告げた。
 公園を出ると、大きな鉄の固まりがびゅんびゅん行き交う大通りに出た。街灯の光が目を差し、思わず目を細めながら歩き出す。
 星の明かり一つあれば、俺たちには事足りるのに。いったい誰が、こんな迷惑なものを、こんなにいっぱいあちこちに作ったんだろう。……まあ、どうせ人間だろう。これのある所は大概、人間がわんさかいるから。
 そんなことを考えながら歩いていると、向こうから、二匹連れの人間がやってくる。その一方が、俺を見止めるなり、甲高い声で叫んだ。
「わあ、猫だあ。可愛い。野良かなあ。触りたあい」
「やめときな。どんな病気持ってるか分かんないよ」
 何を言っているのかは分からなかったが、多分俺のことを話しているのだろう。背中の辺りがビリビリして、思わず駆け出した。
「ああ、行っちゃった……。いいなあ、綺麗な黒猫」
 なおも自分に向けられている視線をビシビシ感じながら、塀の間に滑り込んだ。ここまで来れば、追ってはこないだろう。
 それにしても、あの人間、何となく、俺を囲っていた人間に似ていたな。そんなことを思った。その途端、過去の記憶が蘇り、何とも言えない気持ちになった。
 俺はほんの少し前まで「囲われ者」だった。人間の家に閉じ込められ、あいつらのルールを押し付けられながらも、ぬくぬく食っちゃ寝の日々。物心ついた頃からそうだった。窓の外に時折姿を見せる「宿なし」の連中に恐怖を覚えながらも、心の片隅で見下していた。
 多分死ぬまでそんな暮らしが続くのだと思っていた。それが、ある日突然終わりを告げたのだ。

「マヤー、もう寝る時間だよ」
 そう言って、そいつは俺を後ろから抱き上げる。それはそいつにとっての日課で、捕まるとふかふかした寝床へ連れていかれるのだ。
 そいつより年を取ったもう一匹の人間のメスが言う。
「あんた、ほんとにマヤがいないと眠れないのね」
 逆らっても無駄なので、俺はいつもなされるがまま。そして押しつぶされないように気を付けながら、そいつが眠った頃を見計らって床下に入り込み眠るのだ。毎日毎日、代わり映えのしない日々だった。
 そんなある日、そいつが子猫を連れて帰ってきた。まだ生まれたばかりの赤ん坊だった。俺の鼻先に突きつけながら言った。
「ほら、マヤ、新しい家族だよ。お隣の家で生まれた子でね、ロシアンブルーっていう種類。一匹もらってきちゃった。あたし、ずっと憧れてたんだー」
 相変わらずこいつらの言葉はよく分からなかったが、その物言いに不穏な響きを感じた。思わずその赤ん坊を叩こうとしたら、押さえつけられて怒鳴りつけられた。
 最初のうちは、それまでと変わらない日々が続いた。しかし、子猫の目が開き、ふわふわした毛が生えそろってきた頃から、何かが狂い始めた。

 まず、毎晩の「マヤー」が無くなった。いつの間にか、ふかふかの寝床に連れていかれるのは俺でなくてあの子猫になっていた。俺の時には聞いたことの無いような甘ったるい声で「モカー」なんて言いながら、子猫を抱き上げる。
 その瞬間、子猫はいつも勝ち誇ったような顔で俺をじっと見つめるのだ。解放された、と思うと同時に、それがなぜだか不愉快で仕方なかった。
 やつの食事がミルクからカリカリのをふやかしたものに代わり、さらに俺と同じものを食べるようになり始めてから、更に不愉快なことになった。
 自分の食事があるのに、しょっちゅう俺の皿のものを盗み食いするのだ。
「俺のだぞ」
 と注意すると、大袈裟に怯えたような鳴き声を上げながら人間にすり寄る。すると、なぜか俺が叱られる。
 トイレだって、俺はいつも我慢して同じ所で用を足しているのに、あいつは好きな場所にしても怒られない。質が悪いのは、俺のトイレを勝手に使って汚し散らした挙げ句、それを俺のせいにする。
 最初の頃は抗議していたが、この度に甘え声で人間に泣きついて、俺がぶたれるだけ。そのうち何も言う気が起きなくなった。
 やがて、明らさまに、俺の食事とやつの食事の中身が変わっていった。やつの方がずっと美味しそうだった。
 俺は出されたものを文句を言わずに食べていたけど、やつは気に入らないものは断固として食べようとしなかったからだ。俺が子猫の頃に、同じことをしても何も変わらなかったのに。
 俺はだんだん気難しくなって、人間たちに触られただけでもイライラするようになっていった。何かがおかしい、ということに気づき始めた時には、もう手遅れだった。

「ねえ、僕のごはんと君のごはん、取りかえっこしない?」
 ある日突然、やつは言った。俺はびっくりしたが、やつがいつも食べているものに興味があったので、二つ返事で了承した。
 そして、口を付けようとしたその時、ものすごい勢いで首根っこを掴まれた。
「何モカのごはん横取りしてるの! 可哀そうでしょう」
 怒鳴りつけられ叩かれた瞬間、何かが弾けた。
 いい加減にしろ! 俺は唸り声を上げながらその手を引っ掻き、俺を抑える力が緩んだ瞬間、すかざず噛みついた。
「痛い! お母さん、マヤが噛んだ!」
 その後、俺はケージの中に閉じ込められた。外では、人間たちが俺の方をちらちら見ながら何か話し込んでいる。
「何だかね、最近ピリピリしてるなとは思ってたんだけど……」
「モカにやきもち焼いてるんじゃない。愛想悪いのに、私が甘やかしてたから、自分が一番だって図に乗ってるんだよ」
「今までは、どうせ外に出さないし、他に飼う予定も無かったし、何よりお金が掛かるからと思って見送ってたけど……。やっぱり、キョセイしてあげた方がいいんだろうなあ。明日、病院へ連れて行こう」
 結局、その日は一日ケージの外に出してもらえなかった。何となく不穏な雲行きを感じながらも、どうせ明日になれば出してもらえるだろう、とたかを括って眠りに就いた。

 翌朝、起きるなり小さな籠に入れられた。チクっとするやつを刺されたり、苦いものを飲まされたりする所や、違う人間のいる場所へ連れていかれる時に入れられる籠だ。
 最初は拒んだが、強引に押し込まれてしまった。そのまま、そこに入るといつの間にか遠い所へ移動できる、ごとごと揺れる鉄の固まりに放り込まれた。しばらくすると、鉄の塊の壁が開いて、苦いやつの匂いがぷんぷんしてきた。チクっとするやつを刺されるのだろうか。
 不安になって、籠を掴む人間の顔を覗きこむと、何だかこわばった顔でこちらを見ている。その瞬間、背筋がぞわぞわとして、身体が警告を発しているのを感じた。
 今すぐ逃げろ、さもないと……。訳も分からぬまま、俺は本能に従って暴れた。その拍子に、人間が籠を取り落とし、地面に叩きつけられた衝撃で扉が開いた。俺はくらくらするのを我慢して、がむしゃらにその場を逃げ出した。

 それから何日、彷徨っただろう。大きい鉄の固まりに襲われそうになったり、自分を捕まえようとする人間をかわしたりしながら、必死に安全な場所を探した。外に出たことなんて無かったから、ごはんをどうやって手に入れたら良いのかも分からない。おまけに、外には外で、「宿なし」同士の縄張りがあるらしく、どこへ行っても別の猫の臭いが染みついていて落ち着けなかった。
 そのうちに、歩く気力も体力も尽きて、どことも知れない草むらに倒れこんだ。
 きっと、このまま死んでしまうんだ。そう思ったが、特に何の感慨も浮かんでこなかった。一瞬、慣れたふかふかのベッドや、毎日決まった時間に出された食事なんかが頭を過ったけれど、不思議と未練は感じなかった。それどころか、清々しさすら感じた。
――あいつ、今ごろどうしてるかな――
 俺と違って愛想が良くて、見た目も綺麗で、きっと可愛がられているのだろう。あんなやつら、こっちからくれてやる。そもそも、いったい何の目的で俺を囲っていたのか、皆目見当も付かなかった。
 薄れゆく意識の中でそんなことを考えていると、目の前に何かが置かれた。目を開ける気力も無いまま臭いを嗅いでみると、魚の刺身か何かのようだった。
「お前、これ食えるか」
 見知らぬ猫だった。警戒して聞こえないふりをしていると、もう一度そいつが言った。
「警戒しなくて良い。ここは俺の縄張りだ。お前みたいな得体の知れないやつに死なれると面倒なんだよ。まだ動けるなら、これを食べろ」
 それが、爺さんとの出合いだった。

 爺さんはその後も、こまめに食べ物を分けてくれ、俺が回復するまで世話を焼いてくれた。そして、俺を自分の縄張りから追い出そうともせず、色々なことを教えてくれた。
 今思えば、自分の死期を悟っていて、俺を後釜に据えようと最初から考えていたのかもしれない。
 そして、俺が宿なしとして独り立ちできる頃を見計らったように、ぽっくり逝ってしまった。そして、今わの際にこう言い残した。
――お前がこれから先、宿なしとして生きていくのか、囲われ者に戻るかは俺の知ったことではないが。どちらに転ぶにしても、相応の覚悟は必要だぞ――
 だれが二度と、囲われ者に戻るか、と内心鼻で笑って聞き流した。今日から、俺は自分の力で生きていくんだ。人間になんて捕まってたまるか。
 そう思いながら、爺さんから譲り受けた縄張りの見回りに出掛けた。爺さんに付いて回っていた頃は気にならなかったが、改めて一匹で回ってみると、思いのほかに広く感じられた。爺さんの残り香を自分の臭いで一つ一つ消していくごとに、どんどん空虚な気持ちになっていく。
 ふと、かつて自分が囲われていた人間の住処のことが気になり始めた。実は、位置は既に把握していたが、別の強い宿なしの縄張りになっていて、これまで近づけなかったのだ。
 独り立ちの挨拶回りついでに、ちょっと覗いてみようか。そんな気持ちが頭をもたげた。俺はすぐに踵を返し、かつての古巣を目指した。

 あの人間の巣は、ほとんど外から中を見ることはできなかったが、一カ所だけ、壁が透明になっていて、明るい時間は少しだけ中が見えるようになっている。俺は物音を立てないように、そっと透明な壁の辺りに近づいた。
 そっと覗くと、ちょうど、あの子猫が見えた。しかし、その姿にぎょっとした。
 首の周りに間抜けな覆いを付けられている。あれでは身体がかゆくても毛づくろいできないだろうな、と思いながら下の方へ目をやると、そいつの下半身にあるべきものの一部が無くなっていた。瞬間、ぞっとして背中の毛が逆立つのを感じた。
 あいつ、キョセイされたんだ。囲われ者だった時は知らなかったが、爺さんに教えてもらった。爺さんにも、雄ならあるはずの一物が無かったのだ。囲われ者だった時に、いつの間にか取られてしまったのだ。チクっとするものを刺されて、気を失っていたほんの一瞬の間だったという。
 あの時逃げ出さなかったら、俺も同じ目に合わされていたかも知れない。そんなことを考えていると、壁の向こうで甲高い声がした。
「お母さん。モカがまた、私のベッドでおしっこしてたんだけど」
「そんなの、自分でしっかりしつけなさい。マヤがいたのに、あんたがその子をどうしても飼いたいって言ったんでしょ」
「だって、マヤは、私が選んだんじゃないもん。お母さんが勝手に近所の人から貰ってきたんじゃん。あたし、黒猫はやだって言ったのに。……あーあ。マヤはトイレの場所も餌の場所も、みんなすぐに覚えちゃったのになあ。ロシアンブルーってもっと頭良いと思ってた」
「そんなの、個体差があるに決まってるでしょ」
 見つかったら大変だ、と、俺は一目散にその場を後にした。

 それからの宿なしライフは、多少の不便はあれど、気楽で快適だった。かつて、家の外に見えた宿なしたちはみんな自分より強くて怖そうだと思っていたが、いざ取っ組み合ってみると、そう大したことは無かった。
 今では、この辺り一帯の猫が、俺を見かけると尻尾を丸めてそそくさと道を譲るほど知られている。もっとも、俺が負け知らずでいられるのは、人間のパトロンをうまく捕まえらえたから、というのが大きい気がする。
 爺さんとさよならした日に出合った人間が、なぜかその後、ちょくちょくあの公園にやってきて、俺に食べ物を恵んでくれるようになったのだ。最初は警戒したが、俺を捕まえようとするでもなく、ただ食べ物をくれるだけ。そういう人間も、時折いて、宿なしの間では「パトロン」と呼ばれていた。
 しかも、そいつがくれるのは、俺が最後まで食べられなかった、あの子猫のお気に入りのものだった。今夜も、示し合わせたようにそいつはやって来て、俺の前で缶を空ける。
「ほんとはこういうの、いけないんだよ。でも、私がこんなことしてる相手は、君だけなんだからね。……うちがペット禁止じゃなかったら、今すぐにでも連れて帰るのになあ。……ねえ、もしペットOKの所に引っ越したら、うちの子になってくれる? 初めて会ったときに、一目ぼれしたんだよ。頑張ってすぐにお金貯めるから、待っててね」
 食事にがっつく俺の隣で、何やらわめきながら、頭や背中を撫でてくる。かつて俺を囲っていた連中は何だか嫌であまり触らせなかったが、こいつは匂いも触り方も嫌いじゃないから、触らせてやっている。もちろん何を言っているのか分かりっこなかったけれど。
 でも、もしこいつが、あの連中みたいにぞんざいな扱いをしてきたら、すぐに噛みついて逃げ出してやる。それだけは、固く心に誓っていた。

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