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潜在意識化に存在する*あれこれ*を表出させるには微分と積分を繰り返すしかない

この世界はいつも積分された空間だ。網膜に映る原始関数を脳内で積分して世界を構築している。そこでの美徳は、一見、形式美のように感じても、いつまでも様式美なのである。世界を取り違えている事に気づかずに、枠を作り、色を作り、影を産み出す。いつだって見えている世界は、主観の世界。そこに見えているものが自分だと言うことに気づかずに、人は自分探しをする。外交的なベクトルをΠ回転させるだけで得られる答えを一生かけて探し求める。




「stilllife」という物質がこの世の中にあったとしよう。それは、いつかは壊れてしまうモノを保存するためにできた保存剤のようなもので、常に自分の世界の中心に存在する。主体が構成する世界には角があり、隅っこで誰かが泣くようにできている。正確に言えば、光の届かない領域が存在するということだ。ヒトは見て見ぬふりをする。


ただ、この島国に住む人間は不完全なものを好む。だからこそ、この「stilllife」を定義しない人間が多い。それはヒトではなく、単なるホモサピエンスだ。この「stilllife」は外側の角ではなく、4次元的な内側の角に発生する。外側を見ようとすればするほど、内側の極値から遠ざかる。無限遠を覗こうとすればするほど、x=0の世界が見えなくなる。x=0の定義がない状態で無限遠に発散させようが、そこに価値は生まれない。



だからこそ、内側に極値を発生させないと自我と理性と本能が戦争を始める。越境を許せないヒトとの折り合いを、付ける方法もこれだ。価値観の共存は、少し難しすぎる話なのかもしれない。






内側に極値を発生させれば、存在が明瞭になる。しかし、ほとんどのホモサピエンスはその存在が不明瞭なものになる。常に、存在は揺らぎ、「在ること」に対して不安になる。生が存在すること、肉体が存在すること、思考が存在すること、すべてに対してだ。三角関数的に収束しない極になることが多いからだ。




しかしそこには、周期が存在する。その周期を把握することで、「stilllife」を数的に表現することができる。自分自信の存在を数的に表現することができれば、その揺らぎがあっても自信をコントロールすることができる。「stilllife」とは、自信の関数を見つけることなのかもしれない。





しかし、外と内のバランスを保つのはとても難しい。固有の支点を持ったとしても、力のモーメントによって角速度が発生する。それらはどれもバラバラで、基本的に外むきに発散してしまう。だからこそ、核の引力が非常に重要となる。核に引力がない場合、原子として形を維持するのも難しい。陽子と電子が均衡しているからこそ、物体となり、世界となる。あなたの「stilllife」はどうだろうか。これは核の引力が強くても成り立たない。それはまさにブラックホールであり、周りのエネルギーも光も吸収してしまい、その結果、自分が見える世界も小さくなる。角が近づいてくるのだ。つまり、核と外界の感情や脳や情報を均衡に保つ必要がある。つまり外側の世界と内側の世界で、同じ質量のものを持たないと、均衡が崩れてしまう。だから、内側の世界の密度はとても大きくなる。だから、「stilllife」は【強烈】なのだ。


この竹もそうである。爆音で歌が流れている体育館でも絶妙なバランスを保ち続けていたが、徐々に外側のエネルギーが強くなり、均衡を保てなくなって、大きな音を立てて崩壊した。これがもし、あなただったら。この世界と均衡を保つには強すぎるまでの「stilllife」を所有する必要がある。この竹の造形はまさに人間そのものだった。






大きな音を立てて崩壊し、役割を終える存在もこの世の中にいる。人は死んだ後、日本では火葬される。灰になる。つまり物質的には単なる有機物に過ぎなくて、その辺にのたばっているゴミや廃材と同じになる。それをヒトは神格化し、墓という置物の中に入れる。それはまさに様式美で、おそらくヒトは、遺骨の代わりに木の幹を燃やしたものを入れても気づかない。つまり、その生を成した時のその生命体の役割自体が重要になる。そのヒトが行ったことが、灰の価値を決めてしまう。だからこそ、僕は死後の灰にも単なる有機物にも、役割を与えて生きてもらうことにした。上記の作品は灰でできている。冷え切った僕の体を温めて命を吹き込んでくれた僕の命の恩人である。他の人から見たら単なる炭や灰にすぎず、それは僕にとってはとても悲しいものなのである。


つまり、ヒトの死を悲しむというものには一種の人間関係への依存のようなものがあり、今日もどこかで誰かが死んでいるという事実に誰も目を向けようとしない、というか、向けることができない。いつまで経ってもヒトは、見ているもの以上のものを想像できない。だからこそ争いが発生するし、世界は不均衡になる。集合体同士のエネルギーのレンジが広いのもそういう理由だろう。だからこそ、ヒトは役割を求めるし、ヒトに役割を与える。『命』を芽吹かせ、「stilllife」を感じたいのである。見えてないものに対し非情であり、見えているものに対し情の強い生命体だ。






その生命体も、最初は2つの遺伝子から発生する。つまり、自身の根源を作るのは、父親であり母親である。それは生命体である以上変えることができない。自分は両親とは違う人生を歩もう!と意気込んでいるヒトほど、親の「stilllife」の上で生き、意思決定も親の世界の中でしかできてないということに気づけない。見えている世界は常に婉曲し続ける。その婉曲した世界が、全てで、その世界の中で正解不正解の判断を下している。それをヒトは呪縛と呼んでいる。この呪縛から逃れる方法はないのだろうか。実は存在する。それは、両親の「stilllife」よりも強烈なものを作ることだ。引力で負けない状態を作りだす。そうすることでこの2本の柱から逸脱した自分という存在を作り出すことができる。文化とは破壊と想像を繰り返すもので、ほとんどの人が破壊をしているのは、目の前の石ころにすぎない。その土台自体を爆破させることはない。


その怖さを乗り越えないことには何も進まなければ、いつまで経っても、世界を再構築することはできず、カラーレンズを付けられた世界の中でしか呼吸をできない。あなたは本当の世界の色を見たことがあるか、本当の世界の空気を吸ったことがあるか、そもそも、本当の世界とはなんなんだ。遺伝子レベルで自分を否定し、崩壊させ、再構築することが、「stilllife」への近道であることは、そろそろわかってきただろうか。






崩壊には、粒度が関係する。世界の形を変えるのは常に、洪水である。地震では表面的な世界の形は変わらない。地殻が変動するだけだ。洪水を起こすことによって、陸と海の境界線が変わる。というか、常に毎日形は変わり続けている。一度世界をぶっ壊すためには、自分自身に洪水を起こす必要がある。それにともなうのは、自身が構築してきた建造物が流れていくということだ。構築した世界をどこかへ漂流させることで、新たな発見や気づきがある。日本の文明というのは洪水に密接に結びついており、古墳時代や弥生時代では、洪水が起こるたびに豪のメンバーで地域復興を行った。その度に復習し、対策を行い、文明を発展させてきた。海近くの狩猟民族も徐々に山へ移動し、山へ移動することで、台地を開くという発想に至り、地盤の強い住居を手に入れた。


エジプト文明でもまたそうである。ナイル川の氾濫がエジプトの世界を再構築し続けた。つまり、自分自身に洪水を起こし続けることで、アップデートされていく。パラダイムシフトはそんな感じで起こって行くのだと今回は言語化できた。今ある「stilllife」は、常に洪水に飲み込ませ、形を変え続けないと凝固なものは生まれない。だからこそ、洪水を起こすトリガーが必要になる。それは地震かもしれないし、大雨かもしれないし、噴火かもしれない。しかし、自分の体内での災害を起こすことが、一種のアップデートになることは間違いない。自分自身のバージョンをアップデートして行こう。






それでも太陽のような存在も必要である。太陽系で最大の引力を誇り、星たちを照らし続ける、一番光っている裏方の存在。今僕らが呼吸をできているのもこの太陽との均衡を常に一定距離で保ち、長年、照らされ続けてきたからである。「stilllife」にも太陽が必要になる。精神世界という惑星と均衡を保つための外界の太陽の存在。自分との引力を均衡に保ってくれる存在。絶対値的なものではなく、距離空間的なものではなく、サイクロイドのように回転をし続けることで引力を保ってくれる存在だ。ブルーシートに溶け込みそうな、そんな青を裏側で生み出せる、別の引力とも引き合っている存在。まだ僕にも言語化しきれていない。なぜならこの絵を描いた記憶は僕にはないから。。





そんな僕は今このようにして生きている。左が僕がみた僕、右が、誰かがみた僕。実際に誰かに描いてもらった(誰に描いてもらったかは覚えてますw)。左は外にも内にも雨が降り頻るが、そんなことは一切関係なく世界は進んでいく。でも唯一の救いは雨に色がついているということ。楽しいのだ。雨が降っている、そんな世界が楽しくて仕方ない。カラフルに見えている。また、ガウス関数のような雨が僕を襲い続けて、その雨とも、向き合うことで人生を謳歌している。とても充実したカラフルな傘を持っている。これこそが、僕の「stilllife」の正体だ。きっと誰にも理解されないだろう。



それが右に現れている。狂気と雲 僕はあえてそのような名前を作ってもらった作品につけた。彼女らは名前はつけていなかったが、僕がそう名付けた。端からみた僕は狂気と謎を持ち合わせている存在で、うねりや陰り、そして格子のようなものも見え隠れする。出しきれない狂気を表現してくれている。上の雲の部分は、僕という存在がどのような人間かわからないけど、色がある、そんな様子を表現してくれたらしい。まさにピッタリだったので、外界の僕と思えた。この2枚は僕の今の「stilllife」そのもので、勇ましく、そして物悲しく立ち尽くしている。




そんな、「stilllife」を詰め込んだ作品を並べてみた。






『空間の分離と、ヒト関数の0.5次元積分』


この情景を見てこの言葉が思い浮かんだ。空間をこの世の中から分離すること、まるで常世のような世界がそこには広がり、自分だけの世界に没頭できる。いつしか周りに誰もいなくなり、世界の中を1人で優雅に旋回している感覚になる。自分自身の世界の王様になれている気がしてくる。その旋回中に行われるのが、積分行為で、3次元に生きる自分達を自らで、3.5次元に昇華する。時間でもない、広がりでもない、新たな変数を指し加えるのだ。でもそれは不完全なもので、空間としても成立することはない。だからこそ、美しく、だからこそ、愛が生まれる。外界の3次元空間よりも、内側の3.5次元の方が次元として有利になり、変数の値が大きくなればなるほど、数字として大きくなっていく。これが密度が大きくなるという現象だ。


これは初めて、積分区間を、この世の中から分離することで可能になる。その空間の中で定義された原始関数が存在するからできることだ。操作は簡単でも、そこの世界に没入し、積分区間を定義することが一番難しい。だからこそ挑戦する価値があるし、いろんな人にこの感覚を体験してもらいたいと思う。



この体験をしてもらった人が口を揃えていうのは『怖さを感じる』ということだ。当たり前だ。人間が積分されようとしているのだから。怖くて当たり前。方程式も、一回積分されるだけで、姿形を変えてしまう。次数がどんどん大きくなるということは、ヒトが想像しているよりも恐ろしい絶対値の変化をもたらし、基本的に取り返しのつかない変化となる。だから怖いのだ。でもその怖さを経てでも、姿形を一定期間の間に変え続けることが必要だ。その最初の原始関数のようなものがまさに「stilllife」である。



だからこそ、自分の「stilllife」を見つけるために、ヒトは微分と積分を繰り返さないといけない。さあ、まずは勇気を持って自分だけの空間を切り取る作業から始めよう。そこから全ての物語が始まる。








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スティル‐ライフ【still life】

画材の、静物。 また、静物画。




そして、人間の核、揺れ動かない確信


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兵庫県のとある廃校で行われた『ガチ文化祭!』という企画の中のアウトプットの紹介でした。今回の中で一番僕が気に入っている写真を紹介して終わろうと思う。



『役割』を生み出す瞬間

真っ暗なプールサイドで、ストロボに一番照らされているのが未完成の作品で、それを完成に近づける僕と、たまたま居合わせたカメラマンが撮影した一枚。役割という作品を残すために、生きた証を刻むために、それぞれ3人が、役割を果たしているのが、素敵だなと、そう感じました。死んでいた炭が生き返った瞬間です。

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