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自分を出せる場所

ここ一年は色々なことがあって。
なかなか辛かった。
誰かにわかって欲しいとか、
味方になってほしいという気持ちも強かった。

普段あまり弱音は吐かないし、大丈夫なふりをしてることの方が多い。
いつもこっちが励ます側。
相手の立場に立って共感しながら
その人の味方になって話を聴く。

こちらが弱い話をしたり吐露した時は相手の反応に敏感で、
そこで変に同情されたり一般論を言われたり、
反応に困ってる様子が少しでも見られたらすぐに弱音は撤回する。
大丈夫なふりをする。

頼れないなら別に会ったり話したりしないで一人でいた方がいい。
一人で抱えますからって思う。

昔から人に対して諦めてるところがある。
冷たいのかもしれない。見下してるわけではなく。

心を理解してくれたり、
しっかり見ようとしてくれてる人ってなかなかいない。

しかも、学校や職場で知り合って
長年付き合わざるを得ないような知り合いに対してそう思う。
なぜか信用信頼してない。

家族であってもそう。愛着障害もあるけど。

逆に、知り合って間もない人や、顔も知らないような人の方が
すんなり理解してくれたり、私の核の部分をつかんだりしてる。

そこで気づいた。

近い人には本当の自分を出していない。


私としては、
「本性は出さないけど、察するとか、汲み取ってわかってください」
というなんとも勝手な想いを抱いてる。笑
私自身、関わる人に対しては表面だけでなく深い部分まで見ようとするところがあるので、
同じように見ようとする人ならわかるはずって思ってる。

そこまで興味持たなかったり見ようとしない人はわからなくていい。
わかる人だけ、見ようとする人とだけ分かり合えればいい。
そういう関わり方ができる人だけを大切にしたいと思ってる。

付き合い上の顔。

その関係性の中では、その立ち位置では、
「こう在った方がいい」と役割を演じてる顔。
これは無意識だった。
素を出すってよくわからない。
それがオンの時だとしたら、

完全に一人でいる、その世界がオフの時。
本当は寂しがり屋だし、強くはない。
不安定だし、全然大丈夫じゃない。笑
情熱的なところもある。だけどどこか冷めてる。
物事を深く深く考えるのが好き。
そういう複雑な繊細な自分の顔や性質を出すのは、
このnoteだったりインスタだったり。

知り合いにはアカウントを一切教えていない。
知り合いとは繋がりたくない場所だから。

ここで言いたいことを言い、
表したいことを自由に表してる。
これが心地良い。

そうしていると共鳴し合える人と出会ったりもする。
そんな人からいただく言葉は
日常の知り合いよりもぐっと心に届いたりする。

今日もそんなことがあって
とてもあたたかい気持ちになった。

友達や家族といる時に自分らしくいられる人もいると思うけど、
どこで一番自分らしくいられるかなんて人それぞれでいい。

日常に求めてだめで傷ついたこともあるけど、
ただその環境の中ではたまたま自分らしくは居づらいというだけ。

そこでの自分の在り方を意識してみれば、
変化はあるのかもしれないけど。

抑制せず、我慢せず、自分らしく
あるがままを言葉にしたり表現したり。

周りから制約をかけられず、否定もされず、
話を止めることもなくのびのびと書いてる今。
自由に表現できるってすごいよな。
本当に心地良い時間。

そうすることのできる場所
大切にしていきたい。

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