【短編小説】中華そばと焼きめし

 転勤で新しい街に引っ越して早五日。荷物の整理などもある程度落ち着いてきた頃。
 これまではバタバタしており、自宅周辺の地理といえば職場とコンビニの位置くらいしか頭に入っていなかったが、そろそろ近所の様子をある程度把握しておきたいところだ。
 時刻は午後七時過ぎ。丁度腹が減ってきたところだし、近所の美味いメシ屋の開拓でもしに行こう。
 そう思った俺はケータイとサイフを手に、サンダルを引っ掛けて玄関のドアを開けた。

 俺が引っ越して来たのはとある地方都市。
 東京ほどの都会ではないが、決して田舎というわけでもない。
 程よく栄えており、飲食や買い物には何不自由しない程度に店が充実している。
 初夏の夕方、街が薄暗くなりつつある時間帯。
 人通りはそこそこ多かった。

 街をプラプラ歩いていると色んな飲食店が目に入った。
 牛丼屋、ハンバーガー屋、ファミレス……どれも前に住んでいたところでもよく見たチェーン店だ。
 もちろんチェーン店はチェーン店で良いところがある。
 全国どこであろうと同じメニュー、同じ味、同じ料金。
 困った時にとりあえず行くことができる。
 それはそれでとてもありがたいことだ。
 だがせっかく引っ越して来たばかりなのだから、どうせならここにしかない店に行ってみたいものだ。

 ぐう、と腹から情けない音が聞こえた。
 飲食店の看板をあれこれ見ていたら食欲が刺激されたか。
 これといって惹かれる店がなければ今日のところはチェーン店でもいいかなと思いつつ、大通りから一本入った少し狭い路地に目をやった。

 ビルとビルの間に挟まれて潰れているかのような見た目の、小さくて細い建物が目に止まった。
 入り口の上には小さな赤いテント。
 年季が入り黒く薄汚れているが、白い文字で「中華そば」と書いてあるのが分かる。

 何も考えずとも足は自然とその店に向かっていた。
 入り口の前に立つ。
 縦格子と磨りガラスでてきた引き戸のドア。「商い中」の小さな札がドアにぶら下がっている。
 ドアを引こうとしたが、少し重い。油を差した方がいいんじゃないだろうか。
 少しだけ力を込めて引いたら、ゴトゴトという音を立てながらドアが開いた。
 奥までまっすぐ通路が伸びており、右手側の厨房に向かってカウンター席が八席あり、その後ろには座敷席が三つという作りだった。
 いらっしゃいませ、としわがれた声が厨房から聞こえる。七十歳くらいの老夫婦と思われる二人が店を切り盛りしていた。

 店の中にはスーツ姿の男性が二人、空席を一つ挟みカウンターに腰掛けている。
 座敷席は二つ埋まっており、ひとつは家族連れ、ひとつは学生と思わしき年齢の四人組が座っている。
 俺はカウンターの空いている席に腰を下ろした。

 カウンターの上にラミネート加工されたメニューが一枚置いてある。どうやらこれが全てのようだ。
 裏表両面にざっと目を通す。
 中華そばの他に、餃子、唐揚げ、焼きめし、天津飯、中華丼、麻婆マーボー丼、青椒肉絲チンジャオロース、そのほかに定食も含め様々な品の名前が並んでいる。
 中華料理を幅広く提供する街の定食屋、といった様相だ。
 床はなぜかツルツル滑り、厨房は不衛生というわけではないものの長年営業していることが分かる汚れ具合、机はこれまで時間をかけて少しずつ刻まれたであろう多くの細かい傷が目立つ。
 これこれ、こういう店だよ。中華料理は、キラキラした洒落てて綺麗な店よりこういう小汚い店の方が美味いと相場は決まってるんだ。
 そう勝手に頭の中で評価を下し、改めてメニューと向き合うことにした。

 何を注文するか決めるのにさして時間は掛からなかった。
 初めて来た店だ、まずは定番中の定番を頼んでみよう。
 カウンター向こうの男性に中華そばと焼きめしを頼んだ。
 ラーメンとチャーハンではなく、中華そばと焼きめし。
 この文字の見た目と音の響きだけで既に美味しい。
 定番というところで言えば餃子も注文するべきか悩んだが、予想より量が多く残してもいけないと思い今回は見送った。

 女性が注文を伝票にササっとメモしている。
 男性は中華そばのスープを丼に入れている。
 麺をひと玉、グツグツと沸騰しているお湯の中に投入する。
 他のオーダーが混み合っているということはなさそうだ。
 俺は目の前のグラスとピッチャーを手に取り、お冷を注ぎ一口飲んだ。

 じきに中華そばが目の前に置かれた。
 濃いめの茶色いスープは透き通り、油がぽつぽつと丸い模様を浮かべて浮いている。
 カウンターのコップに差してあるれんげを一つ取り、割り箸を割った。
「いただきます」
 小さく呟き、まずはれんげをスープに沈める。
 ツツツ、とスープがれんげの中に滑り込む。
 顔を少し丼に近付け、ズズっと飲んだ。
 いかにも“中華そば”と言った具合の、鶏ガラと醤油のスープ。
 素朴ながらも深い味わいが染み渡る。
 続けて麺を箸で掬い上げる。つるんとした細麺ストレートだ。
 麺をズルッと吸い上げる。澄んだスープが麺に絡んでいる。
 ほんの僅かに芯を感じるような、程よい茹で加減。
 完璧だ。
 メニューをチラッと見る。
 替え玉は百円。頼んでしまうのもいいな。
 そう思っているところで、ジャッジャッという歯切れの良い音が聞こえてきた。
 目線を厨房の方に向けると、振られる中華鍋の中で米が踊っているところだった。
 腕が細く頼りないように見える男性が、無駄なく洗練された慣れた手つきで豪快に鍋を振るっている。
 目線は鍋に向けたまま、大きなお玉で横にある塩コショウをわずかに掬い、鍋の中に投入する。
 細やかな動きひとつひとつから、この人は何千何万という皿を作ってきたのだろうと想像することができる。

 しばし厨房に気を取られていた。
 改めて目の前の中華そばに向かい合う。
 パラパラと散らされたネギがいいアクセントだ。
 チャーシューは三枚乗っている。一枚を口に入れてみた。アッサリした歯応えの薄さだが、旨みがたっぷり詰まっており肉を食べている満足感は十分だ。

 目の前に焼きめしがコトッと置かれた。
 油で米粒が満遍なくコーティングされ、一粒一粒がぬらりと妖艶に輝いている。
 香ばしい匂いと、中にゴロゴロ転がっているサイコロ状の肉が、嗅覚と視覚を楽しませる。
 こちらも、いかにもといった焼きめしだ。
 中華そばの丼かられんげを引き上げ、焼きめしを掬う。
 少し持ち上げるとぱらぱらと米粒が落ち、それを器で受け止める。
 一口。出来たての熱さだ。
 ハフハフと口から息を吐いてしまう。
 あまり上品な仕草とは言えないが、何もここは高級レストランというわけでもない。これくらいはご愛嬌だろう。
 噛み締めるほどに芳醇な旨みが染み出してくる。
 これだ。
 これこそ俺が求めていた焼きめしだ。
 しっかり味わって飲み込んだ後、口と喉をお冷で潤す。
 焼きめしをもう一口。そしてそのまま、中華そばのスープも少し口に含ませる。
 食べる前から分かっていた。こんなの、合わないわけがないだろう。

 麺が伸びないようペース配分を気にしつつ、中華そばと焼きめしを同時に味わうこと数分。
 夢中になっているうちにあっという間に二つの皿は空になった。
 大満足。満腹だ。
 調子に乗って替え玉をしなくて正解だったようだ。
 すっかり旨みで満たされた口の中を、お冷で洗い流す。
 ラーメンや中華そばを食べた後のお冷は世界で一番美味い水だと思う。
 ただの水のはずなのに不思議だ。
 そしてもうひとつ、さっきまで満腹で大満足だったはずなのにお冷を飲んだ後はまたスープを飲みたくなるのも不思議だ。
 つい、中華そばのスープを一口。やはり美味い。
 そうすると今度はお冷が恋しくなる。
 ピッチャーからグラスに注いだお冷を飲む。
 まだ温かさが残るスープとの温度差に少し頭がキンとする。
 そんなことを繰り返すうちに、中華そばの丼はすっかり空になってしまった。
 健康のためにはスープを残しておくべきなのだろうが、どうも思うようにいかないものだ。

 満たされた気持ちでお会計を済ませた。
「ごちそうさま」
 そう言い残し、重たい引き戸をゴトっと開けた。

 外は先ほどよりも暗くなっていた。
 この時期のこの時間帯は気温が丁度よく落ち着き、ほてった額が爽やかに冷やされていく。
 体も心も満たされた俺は、次に来た時は何を注文しようかと悩みながら家に帰ることにした。

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