おじいちゃん達の戦争帰還記
子供の頃から何度か聞いた、おじいちゃん達2人の戦争からの帰還のお話。
すぐ忘れちゃうので、備忘録を兼ねて書いておこうと思う。
父方のおじいちゃんの話
最初は新潟の軽金属工場に徴用された。
そのうちシベリアに送られた。おじいちゃんの乗ったひとつ前の船は、魚雷で沈んで全滅したため、別の(種類の?)船に乗り換えて行った。
シベリア抑留されることになり、真っ白い吹雪の中を行軍していたらひとり迷ってしまった。
ロシア兵が助けに来てくれた。
抑留中は食事当番のような仕事をした。食事は鮭のみ、鮭が嫌い、食べられないという人は死んでいった。
おじいちゃんは鮭が大好きだったので、生き残った。
おじいちゃんは真面目に働いていたし、ロシア兵はとても良くしてくれたらしい。
※「日本人もロシア人も、切れば同じ赤い血が出る同じ人間だ」とおじいちゃんはよく言っていた。
舞鶴へ船で帰ってきた。新潟までどうやって帰ってきたのかは不明。
※抑留されている間に生まれた第一子の女の子は、おばあちゃんの栄養状態が悪くてお乳が出ず、6ヶ月で死んでしまった。
母方のおじいちゃんの話
中国へ送られた。
現地では、鉄道に関する帳面をつけていたらしい。
※おじいちゃんは大阪に丁稚奉公に出ていたため、帳面が得意で重用されたらしい。
現地の家族によくしてもらい、帰るときにはその家族が大切にしていた硯をもらった。
でも、どうせ取り上げられると思い、現地で割って帰ってきた。
でも、姑娘さんの写真だけは持って帰ってきた。
佐世保について、どうやって新潟へ帰って来たのかは不明。
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