閉鎖病棟日記「退院をする」

 退院をする。前日から皆が見せかけでも惜しんでくれる。ずっと見かけてはいるが話したことはない患者が「もっと早くから話したかった」と言った。僕は照れと人見知りで適当な応対を、眉間を掻きながらする。
 その患者と話すとウマが合い、自分たちは似た者同士だと錯覚し合う。僕は退院した後にはまた人と話さない生活に戻るのだろうと思い、それなりに惜しい気持ちになる。昼食、夕食と飯を食べる度に時間が経つのを感じる。肉や魚が熱を通され、食べ物の匂いがした。入院した時は食べ物の臭いがする度にウッと気持ち悪くなり残していたのだが、今は匂いすらよくわからない。臭いから匂いへと表現が移っただけでも少しは良くなったのだろうと思う。

 そして当日。運良く晴れ、朝に煙草を吸いに行くと、仲良くしていた患者と何を喋るでもなく煙草を吸う。僕たちはきっと、すべての別れの言葉がすべての別れの場面に似合わないことを知っている。気の利いたそれらはなんだか洒落臭くて、恥ずかしくて言うことは叶わない。僕らに必要なものは言葉ではなく、沈黙を許してくれる関係性と時間なのだろう。そしてそれに気づく時はいつも別れの直前なのだ。そして忘れる。
 前日話しっぱなしだった患者と話す。前日から話し始めたのに、なんだか仲良くなれたような気がする。僕は公園デビューの砂場で何も考えずに初対面の子供と山を作っているような感覚に陥る。この人は自分を傷つけないだろうという憶測が確信に似ながら現れる。
「私は美しい人しか側に置きたくないの」
 患者が言った。僕も同じだと言う。美しいというのは外見だけじゃない。内面も美しくなり得る。美しさは配慮ができることでもある。品があるということでもある。美しさはある一定の人々にとってドレスコードで、そのために僕らは美しくあり続けなければならない。僕らはより多くの人に好かれたい。
 その患者からお菓子をこっそり渡される。金銭の介在できない場所では、食事で愛情が表される。それは貧乏くさくて悲しいようにも、児戯のようで可愛らしくもある。お菓子に添えられた手紙を読む。その、別れを惜しむ言葉が連なったそれを読みながら、僕はこの人とこれからの人生また会うことがあるのだろうかと思った。外で話すのには誰でも良くない誰かになることが必須だ。それほど特別な存在になれるとは思わない。

 十時に退院。病棟を出る時、病棟のドアには看護師も驚くほどの患者が集まり、僕に手を振っていた。泣きそうになる。喜ぶべきなのに末恐ろしくなってしまった。僕は惜しまれることが怖くて仕方ない。自分が何か取り返しのつかないことをしたような気分になる。
「またねー」
と、みんなが言った。そして看護師が「『またね』って微妙に適していないんだけどね。戻って来たらだめだし」と笑う。そうか、もう帰って来れないんだよな。このみんながいる病棟には。
 人間が細胞を毎日作り変え、数日で自分はかつての自分と全く違う生き物になるという。病棟の新陳代謝はそれにも似ている。いつも誰かが来て、誰かが去る。ここでは誰でもいい誰かになることが大事なのだ。特定の誰でもない誰かを求め、求められる。寂しくなったら他の人でもいい。その枠に収まるのが得意なだけ。

 病院を出て大通りに出る。一昨日に雨が降ったというのに桜の花は花弁の数を減らしているように見えない。道端には沢山の花弁が落ちていて、それを踏みながら歩く。靴底が薄い桃色に染まるのではないかとすら思う。桜の花に狂気を見出す日本文学的な妄想を止めることができず、軽く気が狂ったような気持ちになる。退院した後にすぐ入院したら違う病棟に入れられる。気が狂ってもここには戻れない。もうここですらないか、あそこか。
 病院からバス停までの道を歩きながら考える。誰も傷つけないことだけで愛される場所が他にあるだろうか? ふと、ゆで卵の匂いが住宅街に漂っていることに気付く。ゆで卵の匂いを嗅ぐ度に誰も傷つけないだけで愛された日々を思い出すのだろう。

 家に帰る。上下黒の服を着ていた。僕の好きなミュージシャンが死んだからだ。彼はずっと黒い服を着て、前髪を眉、触覚を顎で切り揃えたロングヘアで涼しげにベースを弾いていた。
 亡くなる一週間前に同じ髪型にして「次のアルバムはあのアルバムみたいにしたい」とさっちゃんと話し、彼の訃報の数時間前に全身黒の服を着ていて、素晴らしいバンドはすべて運命を感じさせるものだとわかっていても運命を感じた。
 素晴らしいものはいつも見せかけの運命に塗れている。

 人を悼むために酒を飲むことを考えた人はきっと気の利いた人だっただろう。そして弱い人だっただろう。僕は酒を飲みに出かけなければならないと思った。別れを儀式に変えなければ。儀式にしないとやっていられない別れというものがある。全ての悲しい別れは儀式にするべきだ。それは通過儀礼にも似て、何かを乗り越えて生き延びるためには祈りが必要だ。そしてそれによって自分が何か違う人物になったかのような妄想が。

 バーに着き、酒を飲む。バーでは口々に「死んじゃったねえ」と言い、酒を口に運ぶ。死なない人はいない。そんなありふれた箴言では癒されない痛みを忘れるために飲み、悼む。自分が死なないとは思わない。多分みんなそうだ。しかし、愛する人が死ぬとは誰も思わない。いつも自分が最初の殉教者でいられると思っている。



 最近、友人でもありバンドメンバーでもあるさっちゃんの他バンドのライナーノーツを書いた。マスターはそれを読んでくれて、褒めてくれた。その文章をカヤさんという名の客に回して読ませた。他の客は「これを読んだら音源聴きたくなった」と言ってくれて、社会の中で空転していた歯車が運良く他の歯車とくっついて何かを回せているような気になった。玉の当たることのない場所にある釘に、一つの玉が当たったような気にもなる。

 さっちゃんが店に来る。僕は一杯の酒をたかり、それをもってライナーノーツの報酬とした。彼もミュージシャンの死を悼み、「俺この曲あの人っぽく弾いたんだよね」と言った。
 素晴らしいものはいつも見せかけの運命に塗れている!

 カヤさんと60年代ロック、キングクリムゾン、ザッパ、サイケ、ゆら帝、ローファイ、しょぼい音が好きな話をする。やっぱり次(次出す奴じゃなくて次録音する奴)のアルバムはマイク立てて録りたいなどと考えた。

友達がいる 夕べステージで
君は歌ってた まるでスターのように
恋人の歌 バンドがやってた
僕はその歌 すごくいいと思った

初めてギターに触れるような
本当に恋をしてるような
今すぐ何かやれるような
そんな気分さ

ゆらゆら帝国『バンドをやってる友達』


 終電に間に合うように店を出る。ラインを見ると、ラインを交換した多くの患者からは何一つメッセージが来ていなかった。これでいいと思った。別れを遂行するにはやはり酒が必要だ。酒のおかげでなんとか今も生きていられる。

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