閉鎖病棟日記「人の機嫌を取る」

 朝日がうまいこと当たらない部屋で、部屋の電気が点く。それを知ってか知らずか、その一時間後くらいに起きる。飲み水を汲みにホールまで出ると、女の患者がトテトテと走ってきて、「今日はホールに出れる? お話ししようよ」と言った。「わかった」微笑。僕の微笑に女も続いた。それよりも今日は雨が降っているから、喫煙所で煙草が濡れるのが嫌だなあ。

 人と喋る。ただそれだけで酷く消耗し、消耗しているなどと知られたらきっと不快に思われるだろうという恐怖から、ほとんど毎日酒を飲んでいる。酒を飲むことで、人の集まる病棟内ホールに行く勇気をつける。エイヤと行くとそこでは病人たちの共通の話題──病気、自傷、希死念慮──が交わされていて、僕はその、傷を誇らしげに掲げるような感じを見る度に、若い自分が不細工に映っている写真を見せられたかのような気持ちになり、うんざりする。
 僕が酒を飲まないと人と喋れないというのは、一人に言ったが終いで、もう今では伝播に伝播し、病棟内の病人の公然の秘密と化しているようだ。
 女が笑いながら、「飲んできた?」と小声で言った。僕は微笑と共に首を縦に振ると、女は「じゃあいっぱい喋れるね」と言った。酒という物に関する考えが違うのだろう。僕は今、人と喋るために頑張って酒を飲んでいるのであって、何も仙人が山の頂上で日の出を見ながら瓢箪から酒を……と言った調子ではないのだ。人と関わる、人に良く思われるために、どうにか人の形を保ち、微笑を保つための、哀しきガソリンなのだ。それを理解せず、ただ話し相手として利用できるかのパラメーターとして酒気の有無が訊かれていると思うと、悲しくなった。僕が病棟の人と関わることの辛さが知られたら少しは面倒臭いことになるのはわかっていて、誤解してくれていることに感謝がないわけではないが、それでも自分の中身が違う物として見られていることには居心地の悪さがある。そもそも中身があるのかすら危ういが。「僕の中身なんてない。作った物を見てくれればそれが全てだ」と言ったのはアンディ・ウォーホルだったか? 僕もそうだ。

 女が「十六時頃、ここにきてね」と言った。「どうして?」「十五時からカウンセリングがあるんだけど、十六時に終わるのね。だから、メンタル落ちてると思うから話聞いてほしくて」
 何故、僕は人の感情の捌け口にされることが多いのだろうかと思う。僕は人にそうしようとは思わない。そもそもそんなに人に期待していない。人が悩みを解決してくれるとも、自分の感情をマシにしてくれるとも思えない。ただ、嘲られたり、否定されるだろうとしか思えない。女が僕に何を期待していたのか、そもそも期待していたのだろうか。話を聞く、聞いてもらうというのは、いたいのいたいのとんでいけでしかないように感じる。そして治癒するのは自分自身の代謝でやるしかない。僕はいたいのいたいのとんでいけが児戯でしかないことを知っている。だから何も期待できない。

 十六時になると女は大粒の涙を流していて、面倒臭いことになるだろうと思った。とりあえず横に座り、何を話すでもなく笑いかける。目が合う。微笑。世間話。
 なんだか、自分が人間失格の大庭葉蔵になったかのようにさえ感じられ、人間失格の、ハロルド・ロイドの真似をするシーンや女を宥めるシーンを思い出す。少しはそれで自分を宥めてやる。まだ頑張れる。目を瞑って頭を少しメトロノームのように動かす。脳に血がぐるぐる回っている。まだ大丈夫。酒気が残っているから。

 その女は風俗嬢をやっていたと、入院当初から公言しており、あっけらかんと下ネタを大声で話す。その女が何故だか僕の前では小声で暗い話ばかりして、笑い話にしていたことを痛切に訴える。
 そもそも僕は警戒していたのだ。売女・元売女と聞くと、僕はそうせざるを得ない。本当に驚くべき確率で僕は売女に好かれる。それは恋愛や性欲の赴くところではなく、ただ、友情というにもおぞましい、利用しやすい人間として好かれる。信仰すら必要ない懺悔室。感情の携帯灰皿。
 僕が何故そこまで売女に好かれるのか、確信じみた答えは得られていない。恐らく、売女の方々は、性欲の少ない人間をなんとなくで嗅ぐことができるのだろうと思う。萎びた睾丸や柔らかい男根の臭いがわかるのだろう。その二つは男性性のなさと直結し、男性性がないということは粗野や攻撃性という言葉から遠ざかる。そういったところが、「こいつは利用してもいいだろう」と思わせるのではないだろうか。

 フェアじゃない、と思う。せめて、勃起する人間にそれをやれば対価でも払えるだろうに、何も求めていない人間にそれをやるのは面の皮が厚いとしか言いようがない。女性にとって、弱みや傷の交換会は、交友を深めるためにやるのかもしれないが、僕は弱みも傷も人に見せようとは思わない(文章は別だが)。理解されるなんて思ってないから。

 酷く疲れる時にはいつだって病棟は閉鎖の時間で、酒なんか飲めやしない。もう酒気も鼻から抜け切った。嫌になる。嫌になると酒を飲みたくなる。飲めばその酒気を動作から嗅ぎ取った人たちと話さなければならない。まあ、それで楽しい時もあるけれど、辛い時の方が多い。人は利用し利用されて生きるのだとはわかっている。利用されない人間は価値がないことと同義だと思う。でも、そう思うことで自分を慰め、宥めている側面も大いにある。誰か酒を恵んでくれないか。トカレフじゃなくていい。これで終わりにしたい。

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