閉鎖病棟日記「湿度のある好意が怖い」

死にたい。文頭の空白を省いたのは単に間違えたのではない。死にたいと言うのにただ一呼吸すら必要ないのだ。

 朝起きる。昨晩話した女の患者が
「たなかくん大丈夫かなってずっと思ってたの。今日から私四日間いないじゃない? その間たなかくん大丈夫かなって」
ゲロを吐きそうになった。いつお前を必要としたんだと叫び出したくなった。その言葉を飲んだせいでゲロが出そうになった。僕はこういう余計なお世話が本当に嫌いで仕方ない。優しさの押し売りが僕のことを加害すると思っている。
 昨晩も、そんなに話したというわけではない。二人きりで話したというわけでもない。なぜそんなに僕のことを見るのだと思った。
 女の人の、こういうところが嫌いである。着火までが早く、根元は濡れているのに激しく火花を散らす花火みたいだ。
 僕はなんだか、弱い人に好かれるようである。高校の時、家庭のことをスクールカウンセラーに相談したら、逆に愚痴の話し相手として重宝されてしまった。スクールカウンセラーはクッキーを用意して、来ないと帰りのホームルームだというのに連れ去られ、話をされ続けた。
 それから、ひとりぼっちの子が僕にだけよく喋り、大学に行けばネットでメンヘラに常にメッセージを送られ続けた。恋愛でも、なんだか同じようなことばかり起きている。まあ、僕も悪いところがあるのだ。拒絶できずに寂しがる。そういう弱さを見せればもうダメなのだろう。

 前に女性の家に遊びに行った時に、入浴中に服を隠され、生理中の女性器を舐めさせられ、ボコボコに殴られ首を絞められたことがある。それから、僕はなんだか湿度のある好意が全て怖くて仕方なくなってしまった。僕には男性器がついていて、そんなことで悩んでいることが馬鹿にされる怖さがある。これを告白するのも声が絶え絶えだ。

 目の前の患者は一人だけ上がったテンションで「たなかくんが言ってた神社に一緒に行きたいんだけど、いいかな?」などと一人で盛り上がっている。それに対して否定できず、どうしようもなく「今は天気が悪いから天気が安定したらかなあ」などととにかく延期しようとする。

 朝食が来る。なんだかあの人が僕に暴行を加えた上に女性器を舐めさせるのではないかと思えてきて、ワーッと叫び出したい。頓服を飲む。酒しかない。

 外出可能になると外に出る。するとその患者が付いてきて、「ストーカーしちゃった」と笑いながら話す。僕はそれに愛想笑いをした。「おはようとラインしたらおはようって返してくれるタイプ?」「返すけど、僕の内心では『クソめんどくせえな』と思ってるよ」「えー!おはようって送りたいからライン教えてよ」話を聞いているのだか聞いていないのかもよくわからない。それからその患者が僕にしつこく連絡先を聞いてくる。僕は勇気や何やらを最大限に引き出してそれを曖昧に断ると、「じゃあ、病棟に帰ったら教えてね!」と言った。

 もう、人に好かれるためにこうして八方美人をやっているのだが、人に好かれると急に怖くなる。その好意から逃れたくて吐きそうになる。寂しいだけで、人は好きではないのだ。好意が好きなだけで、人が好きではないのだ。それに、単に自分を通すという手段を知らないのかもしれない。

 一旦病棟に帰り、頓服を飲む。疲れていると見られないように頑張っているのだが、病棟の他の患者やらナースに「疲れてますか?」と訊かれる。疲れている。でもしつこい女の患者は僕の顔色など関係ないようで、「ライン教えてよ」と言ってくる。僕は断腸の思いで、「ここの人とは連絡先交換しないことにしてるんだ」と嘘をつき、なんとか逃れる。人にノーを言うと罪悪感で死にそうになる。

 もう酒を飲むしかなかろう。病棟のルールなんてクソ喰らえである。病棟を出、待合を抜け、病院の外に出た瞬間に軽く走った。酒が飲みたくて仕方がなかった。僕はアル中ごっこをしているのか、無頼ごっこをしているのか、それとも本当にそれらなのかはよくわからない。ここに入院をする前は、幻覚を見るほど酒を飲んでいた。統合失調症になったかと思ったが、医者によるとそれは酒のせいらしい。
 コンビニで日本酒を買うと、雨が降りしきる店前で、一気に流し込む。酒を抜く薬を飲んでいるせいか、久しぶりの飲酒だからか、全く体が受け付けない。飲んでいるのに喉は吐きたがり、実際に咽せるようにしてびちゃびちゃと口から酒をこぼす。ひとパックも飲みきれず、四分の一ほど残してコンビニのゴミ箱に捨てた。小走りで戻る。怪しまれてはいけない。手が異様に震えて誤字がありあまる。酒がないと手が震えるのではなく、酒を飲むと手が震える。

 病棟に帰れば、態度の悪く傲慢なナースに人扱いされずに怒る。しかし、キチガイというレッテルを貼られているのだから何を言っても「キチガイが何か言ってら」でしかない。もう悲しくなって、「すみませんね」と適当に自分から折れる。ナースは当たり前だと言うように鼻を鳴らした。また、酒しかない。

 コンビニまで歩く。大分酒も回ってきている。大丈夫。チューハイを買うと公園でぼんやりしながら飲み干す。ビリビリとする感覚が首から指先まで通ったのを確認すると、なんとも嬉しい気持ちになった。頭までぼんやりし始めると、すべてがどうでも良くなってきた。ありがとう酒の忘却の作用よ。

 かと言って疲れが取れるわけではない。疲れで動けなくなってしまった。ずっと病室に篭って音楽を聴く。疲れたな。

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