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「東京タワー」④


「……私のうち、来る?」


渋谷センター街、深夜0時過ぎ。
終電をなくした僕に向かって、キョウコさんが言った。


「えっ」


ドラマやマンガでよく見たシチュエーションが、まさか自分の身にも起きるなんて。
しかもあれだ、東方見聞録での「好きになっちゃった」の言葉と、カラオケボックスでの突然のキッス。そしてまさか、その日のうちにお、お泊まりとは…


「タクシーで行けば、ここから20分くらいだしさ」
「あぁ……うん。あの、じゃあ、お言葉にあまえて……」
僕の声はだいぶ震えていたように思う。


「じゃあ、行こ」


東急百貨店の近くまで歩いて、タクシーを拾った。
後部座席に並んで乗り込むと、キョウコさんは慣れた調子で運転手に行き先の指示をした。
車が走り出す。夜の繁華街の喧騒が後方に流れてゆく。
キョウコさんは無言で僕の手をきゅっと握ると、そのまま僕の肩にコトンと頭を乗せて目を閉じ、ウトウトとしはじめた。
この先に起きることを想像し、全身がこわばるのを感じる。


あっという間に彼女の最寄り駅近くに着く。
京王線某駅近くのアパートの2階。


「はい、どうぞー」


1LDKの室内。キッチンが広いのは、料理の先生をしている母親の影響で彼女自身もよく料理をするからということ。壁には大きな本棚があり、映画のパンフレットや小難しげな専門書がぎっしり入っていた。
品のよい生活感と、サブカルチャーの両立された部屋だ。


「わ、すごい。僕も映画見たら必ずパンフ買う人間なんだけども、この量はすごい。ちょっと、見てもいい?」
「うん、いいよー。お茶入れるね」
「ありがとう!」


キョウコさんの本棚には映画のパンフもCDも僕の家にある在庫とは比べものにならない量が入っていて、ことカルチャーの分野においてそうそう人には負けないという自負を持っていた僕は、呆気なく白旗をあげざるを得なかった。
僕は本棚の前にしゃがみこんで、パンフを取り出してはパラパラとめくっていた。


「ふぇー……」


そんな時。


<ぎゅっ>


と後ろから、抱きつか、れた。


「え。あら。あの。これは、いったい」
「んー?」


背中があたたかい。
そして僕は、この人生初の出来事にテンパるあまり、次に言った一言を18年経った今でも後悔している。


「お、重い! 重い! 今あの、本見てるから、ね」

キョウコさんは身長も150センチあるかないかで小柄な人なので全然重くはないのだけれど。


「えー、なにそれ。ひどいなぁ」


キョウコさんはふてくされたような口調でそう言うと、ふわっと離れてしまった。


「ご、ごめん……」


馬鹿ですね。
そのあと、キョウコさんが入れてくれたお茶をちびちびと飲みながら小一時間ほどあれやこれやの話をした。

「ここに飾ってある写真、だれ?」

「GOING STEADYの峯田和伸。ライブの後に友達と出待ちして写真撮ってもらったの」

「へぇ…名前は聞いたことあるけど」

「峯田和伸は、私たちの世代の甲本ヒロトになりうる男だよ」

「へぇー。今度聴いてみる」

僕がゴイステにハマり、峯田和伸信奉者になるのはそれから2年後のことである。

さて…


「そろそろ寝る?」


ついに来た。この時が。


「あ、うん、そうだね……」


頭の中に、幼い頃からの数々の思い出が走馬灯のようによみがえる。
運動会の時に同級生に転ばされた小学生時代、クラスに溶け込めず同級生に肩パンされた中学生時代、オタクキモいと言われ同級生に肩パンされた高校生時代、友達ができず映画ばかり見ていた大学生時代……。
ついにこの時が。


「じゃあ、このベッ」
「あ、僕はあの、この床で寝るからいいよ! 毛布だけ貸してくれれば!」
「えっ、でも寒いよ」
「いやあのなんていうか、僕、床で寝るの好きだし、原始時代はそもそもみんな地面で寝てたわけだし、いいよいいよ。じゃあ、この毛布借りるね。おやすみ!」
「ホントにいいの?」
「うん! 大丈夫!」
「……私、ヘンな人を好きになっちゃったなあ」

これでいい。これでいいんだ。
人は僕をチキン野郎と罵るかもしれないが、今夜はここまでで充分だ。
生まれて初めて女の子とキッスできてその子のお部屋まで来ることができたのだ。
今日はこれでいいんだ。
洗面所でパジャマに着替えたキョウコさんがベッドに入る。
僕は宣言どおり、毛布にくるまってフローリングの床の上に横になった。


明かりが消える。


「マスヤマくん、本当に大丈夫?」
「あ、うん……」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」


ベッドサイドに置かれた目覚まし時計の秒針の音が、カチ、カチとやけに大きく聞こえた。
背中が痛いのと寒さと緊張とで、まったく眠れない。
それでもなんとか意識を遮断しようと毛布を頭からひっかぶった。


「マスヤマくん、起きてる?」


ベッドからキョウコさんの声がした。


「あ、はい……」


「寒いでしょ」


「……寒いです」


「こっち、来ていいよ」


「…………はい……失礼します……」


僕は起き上がり、ベッドに入った。
キョウコさんの傍らに横たわると、彼女は「ん」と頭を持ち上げて、僕の右腕をつかむとその中にもぐりこんできた。
これは……世に言う<腕まくら>というやつ、では……。


「あっ、あの……」
「おやすみぃ……」


すぅすぅと小さい寝息を立て始めたキョウコさんの体温が伝わってくる。誰かと一緒に寝るというのはこんなにあたたかいものなのか、と驚いた。
そのまま時間が過ぎてゆく。
当たり前だが、緊張して一睡もできない。
おまけに腕まくらをしているので、寝返りもうてない。


(うーむ……)


キョウコさんは安らかに眠っている。
さらに時間が過ぎた。
ちらりと枕元の時計を見ると、午前4時。
もうそんな時間になっているのか。
……トイレに行きたくなってきた。
だが、いま僕が起きたらキョウコさんを起こしてしまう。
なんとか、我慢することにした。


午前6時。
外はだいぶ明るい。
僕の尿意は限界を迎えつつあった。
色即是空空即是色。
気をそらそうにもどうにもならなくなってきた。
初めて泊まった女の子の部屋で尿を漏らす男など、いるだろうか。
もう限界だ。
「ゴホン!」
わざとらしく大きめの咳をした。
キョウコさんがベッドの中でピクッと動いて、少し寝返りをうった。
(今だ!)
僕はスッと右腕を抜き、立ち上がってトイレに向かった。
勝利だ。
用を足し終わり、そっとベッドに戻った。キョウコさんは猫のように丸まって眠っている。
僕はベッドの端に身を横たえた。
キョウコさんの寝顔を見る。
……胸になにか、じわっとくるものがあった。
この子をできるだけ大切にしたいなぁと、そう思った。


気がついたらそのまま2時間ほど寝落ちしていた。
部屋はすっかり朝の光に包まれていて、キョウコさんはもうベッドにはおらず、キッチンでコーヒーを入れていた。


「あ、おはよ」
「おはよう……」
「眠れた?」
「あ、うん……まあ……(2時間ほど)」


キョウコさんは棚の近くのラジカセに近寄ると、薄いボリュームでハナレグミのCDを流した。「家族の風景」という曲だった。永積タカシ氏の優しい声が朝の空気にぴったりだと思った。


「わたし、朝は音楽がないとダメなんだ」


キョウコさんはコーヒーと、トーストを出してくれた。
僕は実はコーヒーが苦手なタチなのだが、砂糖とミルクをめいっぱい入れることによってなんとかトーストとともに胃に流し込んだ。


部屋を見回す。
朝の光、ハナレグミの曲、コーヒーの匂い。目の前に座ってトーストをかじっている、パジャマ姿のキョウコさん。
21年間の人生で、こんな朝は初めてだ。
しあわせというものを形にするならば、こんな風景なのかもしれない。


僕はこの日も昼からバイトがあったので、帰ることにした。
交代でシャワーを浴びて身なりを整えると、僕らは最寄り駅に向かって歩いた。
駅までの道すがら、目覚め始めた商店街を歩きながら、僕はキョウコさんに言った。


「ありがとうね」
「ううん」
「なんというか……大切にします」
「うん。大切にしてください」
「キョウコさんがあの、人生初めての彼女なので、色々とご不便をおかけするかもしれませんが……」
「あはは。キョウコさんってなんか、他人行儀でやだな」
「え、じゃあ……なんて呼べばいいかな」
「うーん……なんでもいい」
「えっとじゃあ……きょう、きょうちゃん」
「じゃあ、それでいいや」
「きょうちゃん、ね。うん。わかった。あっ、僕は?」
「えっ。マスヤマくんは……マスヤマくんだよ」
「え、きょうちゃんとマスヤマくんって、なんかバランスおかしくない!?」
「まあいいじゃん! あはは」


そうこう言っているうちに、駅に着いてしまった。


「送ってくれてありがとう。きょうちゃん」
「ううん。気をつけて行ってきてね。マスヤマくん」
「じゃあ、またね!」


改札の外で笑顔で手を振るキョウコさんに手を振り返して、僕はホームから電車に乗り込んだ。
丹田に力を入れて押さえつけていないと顔がついついニヤけてしまうような、あたたかい気持ちに包まれていた。



ただこの幸せは、僕の悔やんでも悔やみきれぬふがいなさが原因で、決して長くは続かなかった。




続く



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