SNSは小さな電波の文通だ
頻繁に、という訳ではないけれど文字を書いている。
何度も書くけれど、noteもその一環で、カフェなどに入り一番にすることがこれだ。SNSを眺めつつ、その近辺であったことを綴る。別に内容にこだわっているわけでもなくて、本当に散文を連ね続ける。
SNSで知り合って10年戦士が増えてきた。
それだけ自分がSNSに入り浸っているという証拠であるし、上手く言えば自分が一応人間関係の構築に成功している証拠だと思う。
しかしSNSの付き合いは結局SNSの付き合いでしかなくて、真に友人と呼べるか、そう呼んでいいかは個人差があるだろう。SNSの人付き合いをいつ切れてもいいものだとして、スパッと諦められる人だっている。
私はかなり未練がましくなってしまう方だ。何せリアルの友人がそこまで多いわけではなく、数少ない友人たちも縁が切れたり疎遠になったりを繰り返している。程よい距離感がわからない。相互に、間接的に監視し合うSNSの方が向いている。
文字の付き合いが得意なのだと思う。喋るよりも文章の方が得意だ。喋ると何を言い出すかわからない。文章だって即座に書いて、推敲もせずに投稿するから何も考えていないのと同義だろうけれど。
でもやはり、文字の付き合いが好きだ。喋らずとも相手の好みがなんとなく透けて見えて、だからこそなんとなく印象に残り、相手のことを知ったような気になれる場所。結局気がするだけで、本質的には関わっていないのと同じなのだろうけれど。
他人覗き見という言葉がよく似合う。よく見ている。たまにプライベートな、本当に奥まった場所の話をしている人を見ると、本当にその人を知ったような感覚に陥る。本当にその人のことを知っているのだろうか。本当にその人はそう思って綴っているのだろうか。わからない。わからないけれど、私にとってのその人の事実、真実はそのまま文字だけが伝えてくる。
小規模なコミュニケーションだと思う。本当に自分のことを見ているのかわからない照準でいいと思っていて、その照準を直さないまま言葉を放つことをよしとしている。
少しズレた、SNSの中の自分を確立することは悪いことではない。私は私でアバターの自分を形成しているし、それが本来の自分でないことは重々承知している。私には本名があるし、内向的な性格をしていると思うけれど、できるだけ外向的に努め、偽りの名前でSNSを謳歌している。
ハウルの動く城であったけれど、自由になれるためにはたくさんの名前が必要だと思う。SNSで軽やかに過ごすためには、依存先を増やすみたいなことが必要だ。依存先というか、住み心地の良いとこを探す旅をずっとしなくてはいけない。
本来はこういった旅を現実世界でするのだろうけれど、私はSNSでしている。今のところ結構な自分好みの棲み分けができていて、嬉しい。楽しむということを覚えている。たくさん名前があって良かったと思っている。
改めて書くが、付き合いが始まって10年戦士のフォロワーが増えている。
相互フォロワーでも、相互ではないフォロワーも含め、本当に長い時間をSNSと共に過ごしている。絆と呼ぶにはかなりずれ込んでいる不思議な感覚のするそれを味わっている。
でも10年付き合えているということは距離感としてそれが正しいからだろう。不思議な感覚がする。下手をすると肉声で話した事がない人だっている。テキストだけで伝わる言葉たちは、さながら現代の文通だ。電波を使って一瞬で送られる当ての外れた文章たち。
そういった小さな文通があって、今の関係性が作られている。いいな。なんとなく、いい。
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