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劣等感が止められない

「この曲私のことだ」とは言い得て妙だと思った。
ある曲を聞いて、私のことだと思う。共感よりも強い言葉で、よりパーソナルなところに近い、という意味だと解釈をしている。そう。共感よりも強い。うわべの頷きではなくて、深い場所にまで浸透している歌詞がそこにある。
と、宣う私もつい最近この曲私のことだ……と感動をしたばかりだった。

他者の制作物に感情を乗せること、それに身を任せること。いっぱしの創作者としてはいかがなものかと懐疑的になる。常に自分の感情や触感、いわゆるセンスを磨き続けていくはずの人間が、他人のオールで用意された創作物に舌鼓を打っていていいのか、と思ってしまう。
結局自分が作らなくても良い状況になりたいだけで、それは創作からの逃避なのではないか?
そんな想像が私を支配する。そんなことない。創作物に触れて、感化されることはいいことのはずだ。

それでも忌避を感じるのは、私が満足する自己表現をしていないからだと思う。
まだまだ自分を作品の中で語ることに恐れを抱いている。そんなことない、お前はよく書けているよ、と思う人がいるかもしれない。でもそれはほとんど嘘で、書けるというのは一般的な執筆量からすれば、という話であるし、自己表現として私自身が書けているという証拠にはならない。
難しいかな、けれど自己表現と執筆量は切り離されるべきなのだ。内容の違いもあるし、苦労もある。しかし書き続けたからと言って、私を語れるかとは違う。

話が変わって、昨日に今月出る分の原稿を全て脱稿した。
一次創作が一本、二次創作が二本。
総合系の文字数がだいたい八万字ほど。おおよそ一ヶ月半での執筆を強いられた。問題はなかったけれど、疲弊した。
原稿マラソンは得意な方だ。これからも二月三月のイベントに向けて走ることになる。決して嫌ではない。好きでやっている。楽しいからやっている。
苦労も朝になれば終わる。脱稿後の朝は健やかで鮮やかで気持ちがいい。

イベントになれば、さらに多くの創作物が私を刺激するだろう。
それに立ち向かうために、負けたくないと創作をするのかもしれない、と思った。負けたくない。私もできているのだと思いたい。
なんだ、劣等感じゃないか。私はいつものことだ、と安心してこの文章を綴っている。



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