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近況、幸福、それから食事

音楽を聴きながら歩き、朝日が眩しいな、と思いながら近くの喫茶店のモーニングへ向かう。
ただそれだけのことだと思うが、元より朝が苦手な部類の私にとっては、一ヶ月にあるかないかのイベントだ。喫茶店に行って食事をして、こうしてiPadを相手に文章を書いている。
最近はインプットができていないからなのか、アイディアが湧いていない。だからこういう文章を書く。

去年の今頃はnoteを書くことに執着をして、必死だったように思う。
理由はさまざまな頭の絵空事を捻出するのに一生懸命だったからだ。何をするにも面倒な思考がやってきて、大変だった。これら全ての相手をするのは骨が折れると思ったものの、意外とnoteの更新は続いていた。
その頃文章を褒められていたのも更新継続の理由だと思う。とにかく褒められると嬉しい。私の文章はそこまでできたものではないと思っていたから、尚のこと嬉しかった。

「今年が始まって、いいことはあった?」と聞かれた。
答えはわからない。日々を刹那的に生きている気がするので、はっきりとした答えが出ない。消極的に捉えるべきではないのだけれど、私にはあまり良いことが降ってくるイメージがない。こういう考え方を「自己肯定感が低い」と呼ぶのだったら、相当に低い方なのだと思う。
その時は嬉しくても、どんどん嬉しさがすり減って、消えていくから思い出せない。
嬉しさのコンテンツ的消費は加速している。だから刹那的だと思う。あれも一瞬、これも一瞬。その一瞬が連続したら、きっと幸福だろうけれど、そんなに続くわけもない。この世のマシな部分を切り取って、うまく認識しているだけなのかもしれない。難しい。けれどそんな気がする。掬い上げるのが苦手なだけだとも言う。私はマシを取捨選択するのが苦手だから、見逃し続けているのかも。なんて損なのか。

胸を張って幸福だと言えるようになってみたい。
決して自分が不幸だとは思わない。けれどフィクションみたいに、適度な幸福を連続的に手に入れて、にかりと笑ってそう答えられるような日々ができたら、いいと思う。

そういえば、と続けるのもおかしいけれど、食事について思うことがある。
めっきり食べられなくなってしまった。全盛期はおかわり二杯を基本にして、さまざま食べていたと思うのだが、そうはいかなくなってしまった。
年齢のせいなのか、それとも胃が小さくなってしまったのか、はたまた自分の心が食べることについてセーブをしているのか。検討がつかないので、少し食べる量を控えるなどしている。無理をして食べるよりかはずっといいと思っている。
でも、人と外食をする時に気分としてあまりよくないので考えものだ。

友人から教えてもらったカレー屋の写真を今回サムネイルにしているわけだけれど、ここのカレーは美味しい。
自分はどうやらフライドオニオンが好きらしかった。あのパリパリ感が結構好きだ。昔ごぼうの素揚げ(多分、フライドオニオンと似ている)が好きだったので、それもあるのかもしれない。
とにかくフライドオニオンとカレーとの相性がよく、満足しながら食べたのを覚えている。胃は結構キツく感じていたけれども、美味しかった。
このような美味しいも、連続していけばいいな、と思った。

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