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花冷えを待つ

やけに眠たいので、体力の衰えを感じながら目覚めた。
起き上がれるのは大体午後二時頃。本当に就労できるのかを不安に思いながら、今日もTwitterを眺めつつ起床する。
Twitterはなんとなく胡乱な文章が流れてくるので、面白い。活字中毒というわけではないけれど、たくさんの思考が流れていく様を見つめるのは、元気な頃にはちょうどいい。

二月になってしまった。
二月と言えば、私が昨今ずっと言っているように、誕生日の月であり、そろそろ人間辞めようかな〜と思う月でもある。
この人間辞めようかな〜というのは圧倒的な希死念慮であるから、恐ろしい。今の私は別に死にたくはないのだけれど、不意に襲いかかってきた希死念慮にどうしようもなくひれ伏す時はある。波のようにやってきて、引いて、満ちるを繰り返す。
兎に角これは言葉にしにくいのだけれど、コップと蛇口に似ていると思う。希死念慮という水が蛇口からぽとぽと落ちていて、しっかり蛇口を閉められる時もあれば、そうでもない時がある。そしてコップに希死念慮が溜まっていく。コップに溢れた時にぐわーっと死にたい! という感情が募り募って、今度は理性との戦いになる。
幸運なことに私はこれまでの希死念慮に打ち勝っているので、比較的元気に暮らしている。生きていてよかった〜と前向きには言えないものの、なんとか生きている。理性の勝利だ。拍手。喝采。

27歳になったら死ぬと思っていた。これは結構本気で考えていた。
27歳というのは私にとって頂点だった。私の好きなものは大抵27歳だった。だから一番輝いている頃が27歳で、そこから先は消化試合のような、輝きを少しずつ損なうような感覚がしていた。だから私は27歳で死にたいと考えていたわけである。
27歳で死にたい。人生の頂点で死にたい。
これは誰もが考えている共通理念だと思っていた。人生の頂点で死にたいのは誰でも同じだと考えていたのだけれど、実はそうでもないらしいことを最近知った。
知り合いは全力で生きてこそいないものの(いい塩梅に息抜きをしている人だと思う)、いつ死ぬかわからないからと言いながら楽しそうに生きている。きっとその人なりに面倒だとか、嫌なことがあるのだろうがきっちりとけじめのような、線引きをして楽しいことに打ち込めるようにしているのだと思う。
私にもそういう能力があったらなあ、と思いながら、けれどその人にはこんなにうじうじすることはできないのだろうな、と自分をマシであるかのように考えた。実際問題、私はこういう文章を書くことが好きであるし、思索をするのが好きだった。だから私は日々つらつら書いているわけで、多分それは、その人にはできないことだ。個性の役割分けという話だと思う。上手く人間はできている。

最近は死にたくなったら手帳を見直すことにしている。
理由は目先の予定を確認して、どうにか希死念慮に打ち勝とうとしていることが一つ。もう一つはその予定に自分が参加して、楽しいだろうと思い込むことだ。
思い込むだなんて、そんな悲しいことを言うなという話かもしれないけれど、なかなかに難しいのだ、これが。だって死にたいんだから。死にたい自分に死ぬななんて言葉は通りづらく、またどうしようもなく私は暗いのでどうやって希死念慮に打ち勝てるのかを未だわかっていない。でもそういうものなのだ。多分これが私の役目だ。
この世すべての暗い感情を背負うから、なんてRPGじみたことは言えないけれど、のうのうと生きています。2月は最低です。

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