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日本はもっと性的マイノリティ―に対する理解が深くてよいはずなのに

(タイトル写真提供 congerdesign から Pixnio

Twitterでもバズっていた「「同性愛は依存症」「LGBTの自殺は本人のせい」自民党議連で配布」を読んだ。どんな流れでその資料が配られたのかはわからないが、社会学者や心理学者、生物学者といった同性愛の問題を学問的に扱えるだけのバックグラウンドを持った人ではなく神学者の講演録という点で、理解しようという姿勢は見受けられない。大方、資料作成者の考えを代弁してくれているから取り上げたのだろう(批判の意図で選んだのなら褒めてあげたいところだが、今のところそのような声明は無い)。その内容は異性愛者の自分にとっても不快なものだったが、自分にはある疑問がわいた。「少なくとも男同士の同性愛に関しては歴史的には寛容だったはずなのに、保守はなんで同性愛に対してこうも理解を示さないのだろう?

さらに言えばトランスジェンダーに対しても受け入れられる土壌がある。歌舞伎や宝塚歌劇団はどちらかの性しかいない(歌舞伎の始祖、出雲阿国は女性だったけど)が、異性を女型や男役が演じることで成り立っている。TVを付ければオネエが重宝されている(恥ずかしながら、美輪さんやマツコさんを最初男だと思わなかった。二人とも性別を超越した独自の立ち位置を築かれていると思う)。子ども向けアニメで少年を演じるのはたいてい女性だ。野沢雅子さん、田中真弓さん、高山みなみさん、緒方恵美さんといった声優たちの演じる少年は、みんな男前だ。男の演歌歌手でも、たびたび女の気持ちを切々と歌い上げる。我々は男の中に女が、女の中に男がいることを知っている。生物学的には染色体が1つ違うだけなのだから。

そんなわけで、BLや百合という、同性愛をメインに描いたメディアが発達するのは歴史的・社会的な裏付けがあるのだ。歴史の大胆なIFを描いた「大奥」のよしながふみ先生が、男性カップルの日常を繊細に描いた「きのう何食べた?」を生み出したのは偶然ではない。同性愛を芸術の域に昇華させる文化は他でもない日本だからこそ、生まれるべくして生まれたのだ

それなのに、我が国では性的マイノリティが受け入れられているとは言い難い。どうしてだろうという疑問がわいたので頑張って考えてみた。その結果、2つの要因があると思った。

明治維新の影響

その歴史的な要因としては明治維新が挙げられる。欧米にキャッチアップすべく貪欲に彼らの思想を理解しようとした結果、キリスト教的な同性愛嫌悪も受け入れてしまったのだ。これは産めよ育てよで人口を増やすという富国思想と合致していた(今でもこの論理は杉田水脈や件の講演録の楊尚眞など、同性愛反対の立場から提起されるものである。人を物のように扱う、私の苦手な考え方です)。

そして万年与党たる自民党は、明治維新のマインドセット、安倍晋三風に言えばアンシャンレジームを引き継いでしまっている。だからこそ性的マイノリティーへの配慮を促す制度変更に二の足を踏んでいるのだ。そもそも日本国憲法は結婚を「両性の合意」と書いている時点でジェンダー不平等である。少数者に対する理解は間違いなく自民党よりも深い革新系野党も護憲を守株するのではなく、平和主義を譲らないという前提の上で、憲法を点検するという意味での改憲を模索するべきだと思うのは筆者だけではないはずだ。その堅物さも性的マイノリティーの社会的サポートの不足を助長しているのだ。

一方で、同性愛を認めるようになったのも、その多くがキリスト教国である。例えばイギリスはかつてホルモン療法で自殺に追い込んだアラン・チューリング(もしこの「治療」が無かったら、コンピューターの概念は我々が知っているものよりもどれだけ進んでいたことだろう? 歴史が何十年も進んでいただけでなく、現代の我々が気づいていないことを見出したはずだ!)に対して謝罪の意を示した。これはチューリング博士を含め、不当な扱いに苦しんだ当事者の戦いの成果だといえよう。アメリカにはびこる聖書絶対主義の福音派とは違い、ガチガチの教義に縛られているわけではない我々も、なおさら変わることができる。

我々が好きな同性愛とは

そして、もっと大きいかもしれない理由として、我々日本人は同性愛を物語的な視点で消費しているのではないかという点が挙げられる。BLなどは漫画や小説などとして受け入れられている。一方で実際の同性愛に関しては、なかなか当事者や気持ちを知らないという人がほとんどではないか(かく言う自分もその一人だと自覚している。マイノリティへの理解を深めていきたいといつも思っている)。

ある人間が異性を演じることも、演劇的なコンテキストをもって享受されていると言える。オネエもただの性的マイノリティではなく、ペルソナとして成り立っている節がある(社会的には男性を演じながら、女としてショパンとの恋仲で知られるジョルジュ・サンドの男版なのかもしれない)。つまりトランスジェンダーを特殊な文脈としてしか我々は知らない

そう、我々は単純に何も知らないだけなのだ。かつてソクラテスが無知の知を説いたように、異性愛者のシスジェンダーは性的マイノリティに関して全く理解できていないということを受け入れなければ話は進まない。それでも、「きのう何食べた?」のカップルを既婚者の西島秀俊さんとバツイチの内野聖陽さんが名演したように、マジョリティーな自分の中にマイノリティーな自分を作り出すことは可能だ。まずは少しでも当事者の話や考えを知ることから始めようではないか。そして、それをみんなそれぞれ違う個性として尊重する。日本人には(そして人類には)それができるはずだ。

みんなちがって、みんないい

私の好きな言葉です。

金子みすゞ先生の「私と小鳥と鈴と」を締めくくる名言だが、あらゆることを受け入れてくれる優しい言葉だ。我々は同じようでいて、少しずつ違っている。それは性的嗜好に関しても言える。ただ、ちょっとだけ周りと違うだけだ。そのことを、我々はもっと分かることができる。最初に書いたとおり、そのための土台はこの日本にはすでにあふれている。

最後に、まさにこの言葉を体現する、歴史的名スピーチで締めよう。

明日も太陽は昇るでしょうし、あなたのティーンエイジャーの娘はすべてを知ったような顔で反抗してくるでしょう。明日、住宅ローンが増えることはありませんし、皮膚病になったり、湿疹ができたりもしません。布団の中からカエルが現れたりもしません。明日も世界はいつものように回り続けます。だから、大騒ぎするのはやめましょう。(同性婚を認める)この法案は関係がある人には素晴らしいものですが、関係ない人にはただ、今までどおりの人生が続くだけです。

「同性婚に反対する人へ。約束しましょう」ニュージーランドの議員の演説に耳を傾けてみよう


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