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グラスいっぱいの愛、の咄。

その店は大通りを一本入った、閑散とした小道にあった。大通りは若人で毎日溢れかえっていたのに、その道を知るものはいないようだった。

小道には、謎のラーメン屋や、寂れたホテルが建っていた。
その店は、そこに佇んでいた。

就活に疲れたツレピが、うっかり見つけたんだよね、と連れていってくれた。
珈琲が美味しいと聞いて、カフェバーなのかな、と思って行った。

中はこじんまりとまとまっていた。長い年月を重ねたと思わせる一枚板のバーカウンターが、存在感を発揮していた。背の高いテーブルにチェア。深々と座れるソファにローテーブル。淡い間接照明が、観葉植物を橙色に染めていた。

2人だったからカウンターに案内された。店内には私とツレピの2人しかいなかった。珈琲を頼んで、マスターが立っている奥の瓶を眺める。
そこだけ、白い照明だったから、一本一本の瓶が鋭い輝きを臆面なく出し尽くしていた。カウンターにも見たこともないようなお酒が乗っていた。今思えばあれば、限定品のウィスキーだ。

珈琲は確かに美味しくて、まろやかに舌に馴染んでくれていた。別に何を話すわけでもなく、各々マイペースに珈琲を飲んでいた。

「これ、飲んでみてくれない?」

声をかけてきてくれたのは、ロマンスグレのマスターだった。目元の皺に愛嬌があった。手に持っていたのはラベルも何もない緑の瓶。コルク部分に「非売品」の文字が見えた。咄嗟にことわる。
「いや、悪いですよ」
「そろそろ開けないといけないからさ、これ。遠慮しなくていいよ」
マスターが渋く甘く声をかけてきたものだから、単純な2人はえへえへと恐縮しながら貰うことにした。お調子者なのである。

初めて、バーで飲んだウィスキーは、少し気が抜けていて、オイリーだった。ラベルもない、銘柄もわからない、いつのものかもわからない、初めて会ったマスターとツレピと私の3人は、何もわからないままに同じ酒を傾けた。わかるのは、同じ場所で同じ時間に同じものを共有したという事実だけだった。


個々に嗜み、共有する。
相反するもののはずのそれが、確かに両立していると言う不思議に、魅了された。

マスターは、代金を取らなかった。
ほろ酔いの状態でバーを出た。



毎週通った。
マスターに教えてもらったシンジケートというウィスキーが、我が家に常備されるのはあっという間だった。
甘くて、すっきりした、一本木なウィスキー。
バーの楽しみ方を一から教えてくれた。
カウンターに座ったお客さんと仲良くなった。
2人で行くと、お茶目な顔をして、からかってきてくれた。
間接照明の温もりがまぶたにしっかり焼き付いている。

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マスター、お元気ですか。
おかげさまでカレピはツレピになりました。
おかげさまでウィスキー熱に拍車がかかりました。
お店を畳んだと聴いた時は、膝から崩れ落ちるほどショックでした。
どこかでお酒を飲んでいるのでしょうか。
またいつかグラスを傾けましょう。
永遠の愛さえも飲み干すほどに。

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