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ブラックな会社に勤めていた話~1社目~

現在、かなりゆるめの職場でかなりゆるめの事務仕事をしている。それでもそこそこのお給料がもらえて生活できているのは本当にありがたい話。コロナ禍の中でも私のようなゆるゆる事務職へのサポートもしっかりされている。

私は大学卒業後、職をいくつか変えた。その中で2社、私的にブラックだった職場にあたった。それをお話したい。今回は1社目。

就職氷河期時代と言われていた大学時代の就職活動。「夏までには内定を!」と奔走していた大学4年生の私。建築関係を学んでいたため、就職希望先は主に住宅メーカー。
何度も県外に足を運び、説明会や面接をはしごする毎日。それでも結果は不採用。それではちょっと思考を変えてみようと、デザインに興味にも持っていた私は地元の印刷会社の説明会に行くことに。

ファーストインプレッションは大事
説明会初日。社屋に入った瞬間、何か違和感を感じた。何かわからないけど、何かよろしくない空気を感じた。今思えば、この直感を信じるべきだった。しかし、どうしても内定が欲しかった私は2回目の説明会にも参加した。

そして面接。希望職種は「ディレクター」といって主に印刷物のラフなデザイン、コンペの企画、文章やキャッチコピーを考える仕事。にもかかわらず、「本を読むのは好きですか?」という質問に「苦手です」と馬鹿正直に答えてしまった。「終わった」と帰り道に泣いた。しかし後日なぜか採用通知が届き、初めての内定に泣いた。

大学の就職課に内定報告をしたところ、会社名を見て担当職員の顔が一瞬曇った。「なんだろう?」と思ったけど、もう就職活動をしたくなかった私は内定をもらった印刷会社へ就職。卒業する前の2月から研修がスタートした。同時にブラックな毎日がスタートした。

入社直後に去っていく上司と反省文
まず、入社直後にディレクターの先輩が辞めた。もしくは病んで異動した。当時、ディレクターの先輩は3名いた。いかにも頼りになりそうな30代後半の男性2名に、一つ年上の見るからに「バリバリ働きます!」という女性1名。研修初日から「仕事を教わる」のではなく、「仕事を引き継ぐ」ということが始まった。しかも地元では有名な百貨店のお中元カタログの作成。これを私ともう一人の新入社員に託されたのだ。

カタログは100頁以上。掲載商品はウン100件。全ての商品の写真と原稿を集めてレイアウトを考えたり、撮影依頼、立ち合い、数名いる百貨店担当との打ち合わせ、キャッチコピーの考案、デザイナーとの打ち合わせ、修正、校正、修正、校正、修正、校正・・・・・・・毎日がこの繰り返し。しかも大事な商品を扱っているから一文字でも間違ってはいけないというプレッシャー。先輩2名は制作に入る前には「お中元カタログ、大変だけどがんばって」という言葉を残し会社を去ってしまったので、残された私と同期は毎日これでもかというほど奔走していた。会社を出る時間はほぼ0時を回っており、2時、3時も当たり前の生活。居眠り運転も日常茶飯事。事故らなくてよかったが。

肝心のもう一人の先輩、バリバリ感出してる女性は心を病んでいた。そしてやたら強く当たられた。しかし私たちはそれに悲しむどころではなく、百貨店担当に叱られながらようやく校了、印刷に入ることができた。

印刷後、やはりミスは見つかった。私達は社長からお叱りを受け、何枚も「反省文」を書かされた。誰も「頑張ったね!」と言ってくれる人はいなかった。

制限速度オーバーな毎日。退職
その頃、実はまだ正社員にはなっていなかった。当時の時給「650円」で残業手当も支払われることなくこの働き様。手取りは運が良ければ10万いくかというところ。いつまでたっても正社員になれなかったある日、同じチームの上司に「どうしたら正社員になれますか?」と聞いた。帰ってきた言葉は「社長に媚を売りなさい」だった。泣いた。「「社会」とは一生懸命仕事をすることではなく、媚を売ることで成り立っているのか」と思うと残念で悔しくてしょうがなくてトイレに籠って大泣きした。

その後、「媚を売る事」は一切しなかったが、正社員になれた。それでもお給料は研修時代に毛が生えたくらい。私は実家暮らしだったから少しは良かったが、一人暮らしだった同期は「情けない」と言いながら両親に仕送りをしてもらっていた。

入社して半年もしない頃、同期はほとんどいなくなっていた。ディレクターに残ったのは私と心を病んでいる先輩だけ。先輩は仕事を制限されていたので、その他の仕事は全て私にまわってきた。その女性、病んでいても、上司と不倫したり、社長に媚を売る事はやめなかったが…。

コンペのオリエンテーションに他社のお偉いさんに囲まれながら参加して、企画書を書いては落ち、書いては落ちの繰り返し。社長直々のダメ出しも当たり前。それでも容赦なく仕事は降ってくる。相変わらず仕事が終わるのは遅く、休日出勤も当たり前。恐れていた例の百貨店での「お歳暮カタログ」も担当になったが、別の方が主となって動いてくれたので、前回よりもスムーズに印刷に入ることができた。

そんな日々が続いていると、私自身悪い意味での変化が起きていた。毎日、社長や部長が誰かを大声で叱る環境の中で毎日日をまたぐほど馬車馬の様に働き、コンペも落ち続け、近くでディレクターという仕事を見てくれたり相談できる先輩や上司、同期もおらず、一人黙々と「これでいいのか?」と悩みながら仕事をする日々。当時のmixiを見ると、「制限速度が40キロのところを120キロくらいでずっと走っている感じ」と書いてあった。

気付いたら、自然と涙が出たり、うまく人と話せなくなっていた。「最低でも3年は続けよう」と決心した仕事。毎日がむしゃらに働き1年が過ぎたころ、私は心が疲れていた。

家に帰っても全く話をしない私を見て、両親はとても心配していた様。「仕事辞めたい」と打ち明けたら、すぐに「そうしたら」と言ってくれた。研修から始めて1年3ヵ月、無事に退職した。


在職中、人の入れ替わりはすさまじかった。全社員は120名ほど。私がいた1年3ヵ月の間に会社を辞めた人は80名いた。約1年で7割弱の社員が入れ替わっていたのである。
救いだったのはチームの仲間が最高だったこと。ディレクターの私以外はデザイナーだったチーム。私はチームのミーティングが大好きだった。みんなで次に作る印刷物を想像しながら「ああしよう!」「こうしよう!」といいながらコンセプトを固めていく。アイディアを否定する人はいなくて、「いいね!」と言ってくれる。このチームだったからこそ1日でも多く働くことができた。
そして、すぐに辞めていった同期の仲間もなかなかいい味を出していた。「見える」系の女の子がいて、皆面白がって「見えた」話を聞いていた。どうやら社屋はかなり「ヤバい」ところだったらしく、しょっちゅう「見えて」いたらしい。その子は「会話」もしていたらしい。ちなみに前世も見えるとのことだったので見てもらうと、私は「韓国のキャリアウーマン」だったらしい。「虫」だったという人もいたのでとりあえず人でよかった。

ブラックその後と私のその後
そんなブラックな会社、5年前くらいに倒産し、社屋は跡形もなく無くなった。ディレクターという仕事は好きで、クリエイティブな仕事も楽しかった。だけど、自分の心がダメになるまで働く職場ではなかった。好きなことを好きと思えなくなり、楽しい事も楽しいと思えなくなった。この会社へ行くことを決めたときの私にもの申したい。「やめとけ」そりゃそうだ。
ただ、数年後、私は再びブラックな職場に足を踏み入れることになる。

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