2024/07/26 一人遊びと時間の余白

こんにちは。ながたつです。

前回の記事では、飽き性な自分を掘り下げました。よろしければ、こちらも読んでみてください。

前回は、飽き性であることを、ある種諦めたうえで受け入れるような話をしました。飽き性である自分を踏まえて、目移りし続けようじゃないかと結びました。書いた後、しばらくして、なんでそこまでして興味に従って時間をつぶそうとしているのか。自分の目移りを駆り立てるものはなにか。ふと気になってきました。

広がるばかりの興味と関心

自身を振り返ると、僕はさまざまなことに手を出しています。例えば、靴磨き、バー通い、読書、文章を書く、映画、音楽、ファッションなど。まだまだありそうです。並べてみると、結構多くのことをしていることにびっくりします。これらを定期的に繰り返して来ました。どれかのブームが急に来て、飽きては別のところに行く。この繰り返し。

これは景色でも同じこと。同じ場にいることに耐えきれない。一休みしたカフェに30分以上いることができません。少しコーヒー飲んだら、すぐに退店しないといけないなとなる。一人でいるときは決まってこんな感じ。ゆっくり同じことをするのが苦手。

こういうとき、一人遊びが上手な人に憧れます。一人で過ごすことが上手で、頭の中では暇をしない人がいることができる人が魅力的に映ります。やりたいことが次から次へと浮かんでは、ひとまずはやってみる人は話を聞いても面白い。そこに活力や、多肉植物のような豊満さを感じて、うらやましく思う。

堪え性がない自分

ところが、僕はそんな人間ではない。そんな人間ではないからいつまでも憧れる。たしかに興味関心は数あれど、それだけ。例えば、落語も好きですが、寄席に行こうとなっても、結局はやらない理由を挙げるような人間です。

寄席はいつ行っても、いつ出てもいい場所です。空いていれば勝手に入れるのが寄席の魅力。しかし、たとえば、夕飯までに帰らないといけない、となるとあまり見られないし、朝から寄席のために電車に乗るのも億劫になります。結局、正味1時間のことに木戸銭を3000円近く払うのかあ、じゃあいいや、となる。

音楽にしてもそう。1枚のアルバムを聴こうとしても、最近では1曲すらまともに聴けないのだ。こんな状態でまともにアルバムを聴くことはできないじゃないか。こうなる。堪え性のない人間です。

誰もが強みがあるわけではないのだよ

えてして、こんな時、それでもこれだけは飽きずにできるのです。とか、これだけは人に負けません。と挙げる物語がある。どんなにどうしようがない人間にもなにか取り柄はある。それが打開するキッカケになるなんて話が数多くあります。

でもね、僕の現実は違う。僕には本当に何もない。関心のアンテナが広いだけで、ある程度のところで満足して、他のところにいそいそと行く。そして、何をしようにも、何もできないで1日が終わることがあり、それを繰り返すものです。

世の中、1つのことに突き詰めて好きになれる人がいる。どこに行ってもそういう人と出会うのです。その度に、ここにもいた。あそこにもいた。と思い、去っていきます。周りの声が聞こえない人、聞かない人が心底うらやましいんだ。

こんな飽き性な人間はどのように活路を見出せばいいのか。興味関心を持ってきた歴史、目移りをし続けてきた歴史は、各地であった突き詰める人への敗北の歴史です。負け続けた歴史、勝ち筋を知らない人間はどう前向きになればいいのか。

そもそも誰と戦っているのでしょう。勝ちや負けとは、解釈に過ぎません。僕が各地で出会ってきた人たちは、そもそも僕に勝ったと思っているのか。勝敗のために物事を突き詰めているのか。そんなことを気にする人は、突き詰めないんだよな。思いこみとは怖いものです。

人の目を気にして、求められている動きをすることに精一杯になってきた人間は、あなたの好きなように過ごしてください、と言われると何もできなくなります。それが僕という人間。だから、一人遊びってすごく難しい。自由に話したいことを話して、自由にしたいことをする。これはもっとも難しい。

人生はあまりにも時間がありすぎる

やりたいことがない自分が、なにをすればいいのか。今まで広げてきた興味にすがるしかない。人生をかけて暇つぶしをしなくてはならない。だから、興味にすがって、何かをしている、何かを作っているフリをしないといけない。そうでないと、潰されるような思いになるものです。

ところが、人生はあまりにも時間がある。人生100年時代と言われているけれども、人間にとって100年という時間はあまりにも長すぎる。そこまで生きないよ・・・と言いつつも、それでも少なくとも60年は生きる人が多いこのご時世。60年も長いんだな。

だから、多くの人は仕事に時間を費やすのでしょう。1日24時間。労働時間8時間。8時間は眠る。残りの8時間は自由時間。3分の1は自由時間としても、60年の人生として、20年は自由時間。雑な計算ですが、膨大な時間がある。この結論は概ね間違っていないはず。この時間を前にして、足りないという人はすごいと思います。嫌味ではありません。僕は潰されそうになるのです。

なぜか。やりたいことがないから。いきなりそんなものを与えないでくれよと呆然とするしかないのです。与えられることは、いつも嬉しいとは限らない。興味を広げても追いつかないスピードで広がる余白についていけない。

げんきがない人の生きる道

げんきがない。どんどんと、げんきがなくなる。何をするにしても、余白がグワっと広がって、それを埋めようとするにはあまりにも大きな力を使わないといけない。そんな力はもう、ない。少なくとも今はない。

これからも広がっていく余白と、ついていけない自分を比べながら、なんとか時間を潰していくしかない。そんな未来に絶望をしながら、時に泣きながらも、大丈夫なフリをして生きていくしかないのでしょうか。

余白を余白のまま過ごして、ただ時間が流れていくだけの時間を贅沢と思えるような人間を目指していこう。なんとも救いがない話のようですが、げんきがない人なりの処世術としてこの選択肢を忘れないでいよう。何もなくとも、何も生み出せなくとも、かっこよくなくとも、埋めることにこだわらない人間もまたいていいんだと思うことにしよう。

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