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映画エッセイ:『暖流』情熱と恋、愛の方向

 岸田國士という劇作家が書いた恋愛小説『暖流』は戦前最も成功した大衆文学の一つでした。

 物語は経営困難に陥った個人経営の総合病院に立て直しを求められた青年、日疋祐三が事務長に就任します。
 病院の院長の美しく聡明な娘、志摩啓子に会った日疋は強い恋心を抱くようになります。
啓子は日疋の気持ちをなんとなく気づきながら、どこかでこの敏腕会計士に惹かれてゆきます。しかし、プライドが高い啓子は決してその態度を見せるどころか、日疋をどうでもいい存在のように扱います。

 日疋は病院内のトラブルを把握するために、孤児から看護師になった石渡ぎんに目をつけて、スパイとして協力を求めます。
 ぎんは日疋の病院立て直しの目論みに共感するのと同時に男性として日疋に憧れて、その役目を果たそうと努力します。

 お嬢さんの啓子に心奪われている日疋はぎんに目をくれません。ぎんはその悲しみの中にあっても日疋の仕事を懸命に果たそうとするのです。

 啓子は日疋の気持ちを知りながら、意地を張ってエリート医師の笹島と婚約をします。
日疋は絶望しますが、ぎんは自分の手に日疋が落ちるのではないかと期待します。
 しかし、笹島に愛人がいるということがわかって、婚約は破談、日疋は啓子に結婚を申し込みますが、啓子は即答せず焦らしてしまうのです。

 ぎんは日疋を諦めつつも、日疋のためにスパイの仕事を苛烈に務めたために病院を首になってしまいます。
 そして、ぎんは日疋に気持ちを告白し、なおも日疋のために働きたいと申し出るのです。
日疋はがむしゃらなぎんの愛情に打たれて、結婚しようとぎんに言うのでした。

 啓子は日疋の求婚に返答するその日、日疋と結婚することを決心していたのに、日疋から石渡ぎんと結婚するのだと聞かされます。
 啓子は全てを失った自分に気づき日疋に涙を見せまいと海の水で顔を洗って見せたのでした。

 典型的なメロドラマなのですけど、この『暖流』は何度も映画やドラマ化がされました。
戦前の吉村公三郎監督の作品がつとに有名ですが、戦後の増村保造監督の映画化第二作目の 『暖流』は啓子とぎんの造形が現代っぽく強烈に描かれました。

吉村公三郎監督版
増村保造監督版

 そのなかで、看護師の石渡ぎんが、院長のお嬢さんの啓子に次のように言うセリフがあります。

「愛するってどんなことかおわかりになる?わたしは、いま全身が愛なのよ。愛するってね、すれっからしになることなのよ」

 すれっからしになるって言葉。
 なにふり構わずがむしゃらに愛するってことでしょう。

 この辺から、愛するとか恋するとかのヒントが得られそうでうね。

 石渡ぎんは孤児で貧困層出身の叩き上げの看護師、志摩啓子は生まれながらのお嬢さんで、大学出身で留学の経験まである美貌の才女。
 この格差を乗り越えて、石渡ぎんは日疋祐三の心を射止めたのです。

 ぎんと啓子の差はなんでしょうか?

 恋の競争に余裕で勝てるはずだった啓子は焦らしてぐずぐず駆け引きをしていたから負けた。
 ぎんは必死に日疋への愛情を注いでその仕事を手伝ったから勝てた。
そういう見方がすぐに成り立つでしょう。

 でも、なぜ、そうなったのか?

 それは二人の愛情の方向の違いなのです。
啓子はお嬢さんとしてのプライドに、夜学出身の日疋祐三がいかに優秀で格好良くとも簡単に心を委ねない。
 それは愛情の方向が日疋だけでなく、主に啓子自身に向いているからです。

 一方の石渡ぎんは「すれっからし」になるくらいに自分を捨てて、日疋のために働きます。
ぎんの愛の方向は自分ではなく、日疋へ一極集中していてやまないのです。

 恋の情熱はその方向が自分へ向くか、相手に向くかで命運は分かれそうです。

 がむしゃらに愛して恋をしても、ストーカーになってしまうような恋は啓子のプライドとはまた別の自分への方向へ向かった愛になりますよね。

 自己愛か他者への愛か、どうやら、愛すること恋することの本当の意味はこの辺にあるようですね。

 もし、自分の恋心に悩むことがあれば、自分のその気持ちがどの方向へ向かっているのか、立ち止まって考えてみると自ずとわかってくるのかもしれません。

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