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群馬各地を回って気づいたこと。その4 中島飛行機編

 中島飛行機を執筆中は関係各所に何度も足を運んで当時を想像しながら取材をしていたのですが、銀翼のアルチザンが出版し「中島知久平の本」が完成したら、パタリと行かなくなってしまったので、再度、「中島飛行機に出てくる箇所」を回ってみました。


 まずは金龍寺です。

 新田義貞の木造があります。ヘッダー画像がそうです。最初の中島飛行機工場の拡張工事のため、各種埋立工事が行われます。金龍寺の土地が削られました。

 金龍寺の住職は理解があった人物なのでしょう。そして金龍寺は「新田一族を供養している」お寺なので、新田義貞とその一族のお墓があります。もっとも、戦国時代に下剋上が起き、新しい城主が「吾輩は新田一族である(だから城主関わっても問題ないでしょ)」と名乗り、整備されたそうです。

 で、中島知久平さんは近衛内閣の鉄道大臣になると「揮毫」をよく頼まれたのですが、99%は断っていたらしいです。しかし金龍寺で「新田義貞の挙兵600年」の記念事業が行われ、「郷土の先輩を祀る」ということで旗振り役を買って出ます。その記念石碑には「中島知久平」と本人の字を下地にした刻み文字があります。

 現場で確認しましょう!



 お次は、最初の工場で、現在はスバルの北工場です

 この建物は北工場の奥にあったのですが、移動したようです。この建物は知久平さんの執務室に使われていたものです。

 ほんと、「取り潰さなくて偉い!」と北工場の責任者にお礼を言いたいです。まあ、スバルの駐車場内なので「外から眺める」ことしかできませんでした。「産業スパイとして疑われたらどうしよう」と変な気持ちが湧きました。

 そして写真をよく見ると、説明板が置かれています。ズームしましょう。

 なんて書いてあるんですかね?

 左側の道路では木々が邪魔して確認できず、右側の道路に回ったら、見えました。

 続いては太田中心地である金山です。金山城です。途中まで車で行けます。


 金山城は難攻不落の名城でした。上杉謙信や北条家が攻めても落とせなかった城です。個人的に「落ちない城」ということで、受験生向けに宣伝した方がいいのではと思いました。

 金山城は石垣で、城造りの名人と言われる太田道灌は、若かりし頃にこの城を見学したそうです。

 中島飛行機の話をすると、中島の職員の初日の出は金山で迎えていたそうです。銀翼のアルチザンにも書いてありましたね。まだ、飛行機生産が暇な時は東京から来た女学生とここでよく遊んでいたそうな。

 太田の風景を展望できる故か、中島知久平さんの胸像があります。

 裏の説明文は井上幾太郎が紹介しています。井上幾太郎は飛行機の有用性に気づき「空軍独立論」を唱えた人物の一人です。彼は陸軍出身でしたが、海軍上がりの知久平さんの良き理解者でした。


 展望台から見える風景です。当時と今じゃ、だいぶ風景は違うでしょう。多くは水田と桑畑でした。変わらないのは東武線ぐらいではないでしょうか?

 そして金山には神社がありますが、無人神社です。盆暮れ正月、新嘗祭ぐらいしか開いてないのかもしれません。


 金山城を登る際のアドバイスは「ペットボトル一本は持ちましょう」ですかね? ほんのりと汗を書きます。


 続きまして、高山彦九郎神社です。


 放火されて焼失しましたが、今は小さな社があります。で、神社の境内に石碑に中島飛行機の名があります。

 よーく目を凝らしてみてください(笑)

 私は寺社仏閣を巡る時は建物よりも石碑を見るのが趣味です。日本全国の寺社仏閣には多くの石碑が建てられています。歴史を楽しむ身としては、そこに刻まれている石碑の文字や内容、そして寄付者の名前がデータベース化されているといいのですが。

 最後は、小山悌さんの最初の宿泊先である、春日神社です。

 ここも無人神社です。無人販売の御朱印をしていました。「中島飛行機」の文字を見つけることはできませんでしたが、入社したばかりの小山さんはここから北工場に通っていました。

(すぐにフランス人が住んでいる家に同居し、工場拡大や戦局の変化で引っ越しを繰り返しますが)


「とまあ、こんなもんかなー」と思っていたら、大光院によることを忘れていました。痛恨のミスです。

 大光院の住職も中島飛行機の良き理解者で、お寺によくある「蓮の池」の埋め立てをOKし、境内の土地を社宅として提供してくれたそうです。

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