【信仰継承の闇とは?】

「神との関係、人との関係」から思わされた事です。

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もう一つの霊的側面の例を申し上げるならば、信仰の継承があります。
これはクリスチャン・ホームにとっては、とても大きな祈りの課題ですが、霊的な面の「不可欠なもの」と「欲しいもの」で検討することができるのではないでしょうか。


子どもへの信仰の継承は「不可欠なもの」なのか「欲しいもの」なのか、どちらと考えるでしょうか。
意見の分かれるところかもしれません。
おそらくは、クリスチャンの親の多くは、実際的には「不可欠なもの」というベースで、子どもの救いについて臨んでいるのではないでしょうか。


しかし、このような態度ですと、どうしても子どもには強制的になり、親の責任を果たさなければならない、と義務的になります。
子どもの救いと親の信仰を、イコールと考えるようになるかもしれません。このようなアプローチで、とてもよい結果になることもありますが、逆に、親や信仰に反抗するような態度をとるようになることもあります。
あるいは、外面的には信仰を持っているようでも、親からの影響が薄くなるにつれて、信仰についての確信に疑問を持つようになることもあります。


ここで、あまり気づかれない問題があります。
それは子どもにとって、親と信仰が一体になっていて、信仰に反抗することが同時に、親への反抗と一体となっていることがあります。


これは二重によくないと言わざるをえません。
一つは、信仰の疑問について、親に相談することが難しくなります。
信仰についての疑問を、親への疑問と勘違いしますので、いちばん信頼できるはずの親に相談できないことは、子どもにとって大きな損失です。


もう一つのよくないことは、親の側から見れば、信仰の疑問を親に尋ねないのですから、子どもを導く機会を失うことになります。
もし子どもが信仰のことで悩んでいるときに、親が導くことができれば、まさに信仰の継承に大きな助けになるのは間違いありません。

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子供への信仰継承、それは信仰を持った親なら一度は通る悩みでもあります。
愛する我が子だからこそ、救われて欲しいと願うのは自然な思いであります。
私も子供への信仰継承は「不可欠なもの」と思っていました。


でも本当にそうだろうか。
いや、心のどこかで子供が無事信仰継承した時、自分が立派に信仰を伝えているんだという達成感や、周りの目を気にしているだけの「欲しいもの」として期待しているのではないか、とも思わされるのです。


愛する我が子だから、という思いが強くなるからこそ、善意とその裏にある自分の欲望とが分からなくなる。
善意でやっているつもり、実は単なる奥底にある自分の価値の証明をしているに過ぎない事がある、そう気付かされます。




今日も最高の1日を😄

God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)

長瀬雄大



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