連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その17 「私的占領、絵画の論理」で「学ぶ」行為と出会うために

前回からの続き。今週末18日に開催予定の連続対談

連続対談シリーズ「私的占領、絵画の論理」
第三回「予感を描くことは可能か」 ─ 辻可愛 ─

こちらについて、面識がなかった辻可愛さんとの事前打ち合わせで、いったいどのように当日の進行を行うか、相談していたときのことです。辻さんは、「みんなで考えるような…」とおっしゃっていたと記憶しています(正確なところではないかもですが、大意として)。僕から若干補って説明すれば、いわば、壇上からアーティストが自らの考えを一方的に述べるのではなく、会場に集ってくださった方々と、辻さんと、同じ目線で、作品について検討するような場所にしたい、というお考えなのだと思います。これは、前回有原友一さんの時に書いた、僕の現在の「私的占領、絵画の論理」への考え方とほぼ共通します。

「私的占領、絵画の論理」は、少なくとも「画家」と「観客」を切り分け、「画家」が「観客」に向けて、何らかのサービスを提供する場ではありません。それはどこまでいっても絵画とその論理を検討し試す場です。僕は会場において画家と観客を弁別する必要を感じていません。

こういう考えは、けしてこの企画の最初からあったわけではありません。実際、第一回の五月女さんの回では、僕は冒頭「今日は二人で、1対1で話させてほしい」と観客のみなさんにお願いしています。最近のアート系イベントでは、進行途中で観客がフリートーク的に介入するようなあり方が出てきていましたので、「私的占領、絵画の論理」では「1対1」という形式を強調したかったのでした。しかし、今回、はっきりこの形式を修正することにします。皆様、ぜひ辻可愛さんを囲んで、聞きたいことや発言したいことがあったらご発言ください。実は前回の有原さんの回から修正をしようかなと思っていたのですが、結果的にそのようにはなりませんでした(その代わり、大変活発な質疑応答ができたのでよかったのですが)。18日の当日は、冒頭でこのことについて説明しようと思います。

「私的占領、絵画の論理」は、知り合い相互でイベントらしき「盛り上げ」を演出する興行イベントではなく、また特定の作家なり、ART TRACEなり(あるいは永瀬個人なり)を宣伝するための道具でもありません。ごく素朴に、自分が興味を持った「作品」について考え、検討し、新たな制作、新たな作品につなげていくための場所です。僕が以前に行っていた自主企画展覧会+批評誌出版のときも考えていたことですが「私的占領、絵画の論理」は、作品を学ぶ場所、しかも文献や社会文脈といったものを踏まえた上で(それらは無論、重要です)、「作品」から直接考えていくための、公開の教室なのだと思います。

古代のアカデミアでは、学校とは、事業体として教師が生徒に「サービス」を提供するのではなく、学びたい人々がまず集い、自分たちの課題に即して、教師を自分たちで「選んで」、来てもらって講義を受けていたといいます。それが本来の学びの形態です。僕はART TRACEと共同で、自分が知りたい、考えてみたい「作品」を選び、その「作品」について話してくださる作家さんを呼びます。そして、その場所を、外にも開いて、同じような関心を共有できる方々と一緒に、「作品」について考えようと思います。そして、ここからが重要なのですが、その「作品」について、やはり興味を持って検討したい、と考えている水準において、作家さんも同じ立場にいると思うのです。

作家が作品について正解を握っている、という誤解ほど、芸術を貧しくする先入観はありません。往々にして作家すら自作を誤読するし、悪質な場合は自分に有利なように誤読を誘導します。作家から生まれながら、作家から独立してゆくのが「作品」なのですし、僕が知りたいのはあくまで「作品」についてです。作家が興味深いのも、あくまでその素材、あるいはヒントとしてであって、作家という「人間」への興味は基本的に「私的占領、絵画の論理」においてはカッコに入れます(どうでもいいというわけではないですよ)。なので、辻さんも、他の人々と一緒に「みんなで考えるような…」場を必要とするのだと思います。

今回「私的占領、絵画の論理」が選んだのは辻可愛さんの「作品」といえます(今までの回もそうです)。その「作品」を検討するために、辻さんにも、そして同じような関心を持ってくれる他の参加者の方にも来て(つまり「私的占領、絵画の論理」を「選んで」)もらいたいのです。この考え方は、「私的占領、絵画の論理」の「集まり方」にも反映しています。

そう、「お金」の話に、その姿勢は見えるはずです(続く)。

※「私的占領、絵画の論理」は要予約です。関心ある方はこちらへ。

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