連続対談「私的占領、絵画の論理」第一回「絵画の「質」とは何か」 ─ 五月女哲平 ─ レポート

去る12月20日に、ART TRACE GALLERYに五月女哲平さんをお迎えした連続対談「私的占領、絵画の論理」第一回「絵画の「質」とは何か」は、盛会のうちに終了いたしました。ご来場くださった皆様、ありがとうございました。
共同企画のART TRACEと僕から、それぞれ企画意図についての話もさせていただきましたが、ここでは主に五月女哲平さんのお話しを中心に、僕の感想と発言をあわせて簡単なレポートをしておこうと思います。

「忘却」と絵画
五月女さんの作品が、歴史や環境といった作品の外側との関係を前景化していったきっかけとしての東日本大震災での経験が語られました。アトリエで作品が落下し、傷ついた中からその衝撃を反映した「絵画」。成立の過程で様々な形象が描かれては消され、塗り重ねられる=下層の出来事が隠され「忘却」される事態が、歴史や出来事が時間の経過の中で隠され「忘却」されること(そしてそれを改めて思い出すこと)と繋がっていることに五月女さんは気づいたと言います。自分が描いてきたことが、そのまま社会のありようと同じだと五月女さんが自覚したことが、作品の層構造の明晰な構築につながっていったように、僕には思えました。
また、ご自身の家系の中にある「画家」への距離感が、写真や映像を使った、つまり絵を迂回した形での作品制作につながっていることも語られました。現場では僕はコメントしませんでしたが、いわばここにも家系という「歴史」とその忘却/思い出しの層構造があるようにも感じられました。

技術開発
作品が展覧会の中でうまく機能していないのではないか、キュレーションの中での自作の位置づけが見えにくい、と五月女さんが考えていた中で、その展示を見に見た学芸員の方が話した「技術開発が必要だ」という点を、五月女さんは「これは作家にも言える」と考えたといいます。自身の作品が社会の中に出ていく場面で、様々な壁にぶつかるとき、それにどのように対面するか。ゲームで行き詰ったシーンで、迂回するか乗り越えるか、リスタートするか、といった選択があるように、自作がどのように世の中に在りうるかに対して「技術」を必要とすると。
僕からは、五月女さんのこの「技術」が、いわば作品から離れたプレゼンテーションの「技術」にとどまらず、作品の構造自体に反映している点が興味深いと発言しました。例えば写真とガラスの層構造からなる非-絵画作品の「額装」が、作品を保護し作品を美的にフレームアップする社会的機能を持ちつつ、同時にそれそのものが作品の構造の一部になっている(作品とその社会性がここで相互浸透していることが示される)。五月女さんが必要と感じた「技術開発」は、もっと広い意味であると思いますが、そういう「技術」の中に、プロダクトやインテリアのお仕事も位置づけられるように思いました。

遠く離れた事物を結ぶ媒介としての美術
五月女さんの未発表の作品についてのお話しもありました。ここで詳細は書けませんが、美術には、遠く離れた事物を結ぶ媒介という機能がある、というお話しをされていました。これは過去の五月女さんの展覧会「猫と土星」でも扱われた主題で、猫という五月女さんにとって身近なものと、憧れを象徴する遠い土星がどのように結びつきうるか、というテーマが、新作にも続いていることが示されました。僕からは、新作で過去と未来が、絵画では扱えないメディウムで媒介されていく、そのプロセスや見え方に、実体的な「絵画」ではなく、「絵画の論理」が見えるように感じる、とコメントしました。

「自分で理解していないことはできない」
この後、今日のテーマである「絵画の「質」とは何か」という議論になりました。主にこの点で、五月女さんと僕の考え方、あるいは理路の設定の仕方に差異がありました。僕が五月女さんの「作品が機能しない」という点を反転させて「機能しないことの貴重さがあるのではないか」としたところで、五月女さんは、「いや、自分が理解していないことはできない」と発言されました。ここには重要な段差があります。
例えば五月女さんの作品の「隠れていること」「注視しなければわからないこと」は、結論先取的に「不透明性」を価値あるものとする=質である、とジャッジしたのでは出てこないものです。むしろ、徹底して考え、理解し、精密に作り上げる中で、結果として析出され、意図して(理解して)「隠す」ことで、「質」が事後的に表れるわけです。五月女さんは、自分が「わかっていない」ことから来る機能のしなさにはストイックな課題意識をもっていることがわかりました。ここを峻別して、もう少し細部にわたって五月女さんにお話しをお聞きすべきだったかもしれないと考えています。

絵画の政治性
五月女さんは海外の芸術祭などを見てきた経験から、絵画がそういった場で展示される場合の「政治性」に気づいたとお話しされました。その地域、その場所、その「壁」に、ある作品が展示されることで見えてくる、様々な歴史的文脈や社会的位置、また作品そのものの価値決定の基準などが問われる場として成立している場所が、国内だとなかなか見受けられない、という指摘もありました。
この点についても、僕の突っ込みが不足していたかもしれません。例えば先に、五月女さんが「絵画」と「忘却」の関係を話されていたことに絡めて、「忘却」を防ぐ(遠く離れた未来につなげる)可能性としての絵画、といった論点もあり得たでしょう。国内の美術館や美術展、芸術祭の問題点なども話し合いましたが、もう少し五月女さんの作品に立脚して、「忘却と絵画」について話すことが可能であったかもしれないと思います。

他にも作品が手渡されること、作品が摩耗したり汚損したりすることの意味、また美術が受け渡されることの意味など、いくつかの論点が出ました。そこでは、例えば作品の「壊れ」や収蔵のデータ化に対して意味を見出す僕と、反対に基本的に、やはり美術作品はあくまで丁寧に扱われてしかるべきだ(ものとして残らなければ壊れることの意味も見いだせない)という五月女さんの立場の差異も見えたように思います。いうまでもなく五月女さんの立場がオーセンティックであることは間違いありません。最後には五月女さんの大学生時代の作品もスライドで映され、大変貴重な機会になりました。そこでもコンセプチュアルな手さばきの中に「層構造」が散見されたのが興味深かったと言えます。

振り返れば僕の力不足で必ずしも十分な展開が出来なかった点もありましたが、それでも五月女さんの、整理された思考と誠実な制作姿勢は来場された方には伝わったのではないでしょうか。

主に五月女さんの、落ち着いた、しかし情熱的かつロジカルな語り口と、ご来場いただいたお客様の熱心な聴取によって、「私的占領、絵画の論理」の第一回「絵画の「質」とは何か」は、前向きな雰囲気で終わることができたと考えています。僕としてはそのことに感謝しつつ、2回目以降の「私的占領、絵画の論理」に生かしていきたいと思います。

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