連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その9「作品は、その論理は、試されなくてはならない」

前回の続き。どうしてART TRACEと僕(一人組立)は、ART TRACEの一員である有原友一さんと、公開の場で有原さんの絵画作品について話すのか。僕は前々回のブログでこう書きました。

誰にどう見られようと・あるいはそもそも誰にも見られなくても、作品が内的動機から作られ始め、内的論理によって出来上がること──こういった、作品制作の基本的骨格が露わになる状況で生まれた作品には、独特の強さがあるのではないでしょうか。

だとするなら、作品について語ることも「誰にどう見られようと・あるいはそもそも誰にも見られなくても」成り立つのではないか。

まず、「制作の現場」と「作品について検討する場」を切り分けましょう。僕は「制作の現場」においての、ある種の孤独、社会性からの距離の貴重さ自体は、今でも正当だと考えています。同時に、そのような環境で作られた「作品」が死蔵されるのではなく「展示」されることは、同じようにとても大事です。作品を売ることや動員を図ることの価値、必要性はここでは一度棚上げします。「作品を見る」行為、展示-展観の重要性は、「制作行為と作家の間に距離をおき、作品を作品自体として取り扱うこと」が、展示(他者)を介することでしか可能になりにくいからに他なりません。

極端な言い方をすれば、たとえ観客が結果的に一人もこなかったとしても、アトリエから離れた別の場所で、作家が作品と出会い直し、おのおの別の存在として、お互いに検討しあう、という場として展覧会は必要なのです。そして、そこで観客は、最低一人はいます。作家自身です。むしろ、展覧会とは、作家が作家であることを停止し、作品の前で一個の観客になるために必要なのだ、とも言えます。そのように作家自身を含んだ観客の立場から言えば、そこに「制作者の考え(人間の考え)」とは別の、「モノの考え(論理)」を見出すために、展覧会は要請されます。

例えば、自分の部屋の中にいて、そこで自分の服装になんの問題も感じていなくても、街に出て鏡に映った自分の恰好に「あ、ヤバかったかな」と思う経験はありふれています。いつもの自分の環境におかれているモノ(ここでは作品)を、異なった環境において「試す」行為は、その作品の可能性や不可能性を見るうえで重要です。そして、作品についての「考え」「論理」「ことば」についても同じなのです。作品は、その論理は、試されなくてはならない。「私的占領、絵画の論理」は、「作品の論理」を作家やその周囲の社会的条件から一度切り離して──切り離すという言葉が強すぎるなら距離をおいて──検討するための、一つの方法なのです。

従って、「私的占領、絵画の論理」に有原友一さんを招くことは、むしろ普段の「画家同士の個人的な話」を止め、開かれた場で、画家から独立した「絵画」とその「論理」を、不特定の人々の間で試し検討するために、意図的に行われる、ということになります。

ここまでで、「私的占領、絵画の論理」が、あまりにも制作者の要請、言い換えれば画家の都合だけで構成されていると感じた方。正解です。「私的占領、絵画の論理」は、少なくとも「画家」と「観客」を切り分け、「画家」が「観客」に向けて、何らかのサービスを提供する場ではありません。それはどこまでいっても絵画とその論理を検討し試す場です。僕は会場において画家と観客を弁別する必要を感じていません。少なくとも「私的占領、絵画の論理」は、登壇する画家と対話相手の僕、そしてそこに参集してくださる皆さんを等しく潜在的な制作者として扱います。その人が今、実際に作品を作っているか、絵を描いているかどうかは問いません。精密に言えば、「私的占領、絵画の論理」の現場には、「これから作品を作る(かもしれない)人」が参集するのです。

登壇している画家が常に絵を描き続けるなんて保証はどこにもありません。人はある日、まったく急に絵を描くのをやめてしまうことだってあるのです。明日、もしかしたら絵が描けるかもしれない。作品を作れるかもしれない。そのような、子供のような期待と不安に晒されている人々だけが「私的占領、絵画の論理」には集います。反対に言えば、「私的占領、絵画の論理」は、明日、作品をつくることを可能にする場として整序されるのです。その協業者として、ぜひ、有原友一さんの個展会場へいらしてください。

第二回「終わらない描きについて」 ─ 有原友一 ─

今、僕は「画家が常に絵を描き続けるなんて保証はどこにもありません」と書きました。実際、美術学校の卒業生であっても、人生の途中で制作から離れる人のほうが、現実には、多いのです。

ぼくが有原友一さんを特異だと思うのは、しかし、そのような「制作を止める」気配が、見られないことです。ここまで「描き続ける」という行為が、そのまま絵画の質の高さとして画面に定着している画家は稀有だと思います。次からは有原さんの作品自体について、僕が今考えていることを書きます。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?