連続対談「私的占領、絵画の論理」について。その8「それはお手盛りとどう違うのか」

前回からの続き。26日に開催予定の連続対談「私的占領、絵画の論理」、

第二回「終わらない描きについて」 ─ 有原友一 ─

でお迎えする画家が、共同企画者であるART TRACEの一員であることについての「危険性」を考えます。

なぜ僕は、有原さんをお呼びして、公開の場でお話しを伺いたいのか。ART TRACEが「一人組立」(永瀬)との共同にせよ企画を立てて、人を呼んで公開で何かを話す、というならば、その人は外部から呼んでくるのが一般的です。というよりも、端的に、ART TRACEがART TRACEの構成員の話が聞きたいならば、それは身内で勝手に話を聞いていればいいのではないか。わざわざ「おおやけ」に何かするならば、それにはそれ相応の必然性があるはずです。なければいけません。

お手盛り
読み方:おてもり
自分自身が持つ権限などを利用して、自身やその所属する集団などにとって利益があるような決定を行うこと、または、そのように試みること。御手盛り。(Weblio 辞書)

もし、26日に行われる有原友一さんと僕の対話が、ART TRACEという共同体の、自己宣伝・「お手盛り」になってしまうのであれば、それは単にこの企画全体を毀損するだけでなく、いわば公共、「おおやけに集う」という行いへの毀損となり、ひいてはウイルス感染症の不安の中で「人と人が会う」意味が問われる、罪深い行為になるでしょう。そうであってはならない。

結論を言えば、僕は、まず前提として有原友一さんの作品は「対話」するに足る優れたものだと思っており、かつ、「対話」とは、時に不特定の観客、「他人」を介してしか、可能にならない場合がある行為なのだと思っているのです。

では、そのような、他人を介して初めて可能になるような「対話」とは、どんなものでしょうか。

僕は学生時代、演劇部に所属していました。公演は当然観客を入れて行うものですが、そのためのエチュード(練習)には、一般的な観客はいません。いわゆる「演劇的」な発話──1980年代小劇場のムーブメントの後であった当時に即して言えば「小劇場演劇」的、紋切り型の発話──をひとまず回避するために、役者経験の浅かった僕は、隣にいる役者との掛け合いを、意識的にプライベートな会話に近い形で「練習」していました。相手の声を聞き、その感覚に反応してこちらも話をする。台本のセリフを「自己表現」するのでも、ましてや舞台上の「演劇的効果」のためにオーバーリアクションするのでもなく、ことばのやりとりとしての「会話をする」こと。俳優初心者としては定石の一歩です。

しかし、この「練習」を見ていた演出家は、ある段階で、もう一つ、指示を加えました。

「相手の言葉を(直接聞くのではなく)客席を通してから聞くように。自分も(発話を)客席を通して相手に話すようにイメージせよ」。

これは決して「小劇場演劇」的な、オーバーリアクションな発話をしろ、ということではないのです。言ってみれば台本上のセリフ、「ことば」を、「自分」のものでも、また「相手」のものでもない、「ことばそれ自体」として一度扱ってみろ、という含意があったと思われます。当時の演出家の意図そのものではなくても、結果的にそういった意味を孕む指示だったと僕は考えています。

演劇と公開の対談はむろん別です。実際、演出家が俳優に与える指示はここでとどまるものではなく、また俳優が台詞を扱う扱い方も場面場面で異なります。しかし、それでもこの時に僕が受けた指示には、発話とことばに関する、大事なものが含まれていて、それは今でも変わらないと僕は考えます。発話が、しかし、発話者とは切り離された「ことば」になること。あるいは発話者とことばの間にいったん距離を置くことで、発話者とことばのそれぞれを尊重すること。そのような分析的(分解的)聴取と発話によって、立ち上がる空間があるということ。

例えば絵画において、絵具とその筆致を、描き手から一度切り離し、それ自体で独立したものとして扱うという態度は、美術作品を見る場面で基礎的な修練として要請されます。役者の発話同様、絵画の鑑賞には様々な立場や方法があり、こういった見方だけをドグマティックに特権化することは危険ですが、しかしそれでも、一度はそのステップを踏まなければ、作品の把握は「作者の自己表現」とか「作者の(条件の)反映」といったナイーブなところで留まってしまいます。

今回に限らず、「私的占領、絵画の論理」という企画全体において、重要なのは、迎えるゲストの方自身、というよりも、その画家が構成する「論理」であり、そのような「論理」を捉えるための、一つの方法として、公開の場で、第三者を介して/経由しつつ会話することが重要なのです。

この考えは、僕一人のものではなく、むしろART TRACEのほうから生まれてきた思考です。今年2月以後、ウイルス禍の中での「私的占領、絵画の論理」をめぐっては、その開催の可否の議論において、僕からは無観客での対話、あるいはその収録をネットで流すことも提案していました。しかしそこでART TRACEから出た反論には、やはり今回の企画には、外部からのお客(訪問者)が必要なのではないか、というものでした。このとき、僕はこの意見に、とても深く納得させられたのです。ことに対話の相手が有原友一さんであることを考えたとき、ART TRACEの意見と判断はとても大事なものであることが、僕にはわかってきました。

しかし、です。これは僕が前回書いた、「誰にどう見られようと・あるいはそもそも誰にも見られなくても、作品が内的動機から作られ始め、内的論理によって出来上がること」の重要性と、乖離していないでしょうか。

ここで作品を開くための「展覧会」というものの意味がでてくるのです。(続く)

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