連続対談「私的占領、絵画の論理」第二回 「終わらない描きについて」─ 有原友一 ─ レポート

2020年6月26日、中断していた画家二人による連続対談シリーズ「私的占領、絵画の論理」第二回目が、ART TRACE Galleryの有原友一展「ふるまいとピント」会場で、作家ご本人をお迎えして開催されました。

「自分の身体を使う、非言語的な試行錯誤」
有原さんから展覧会の成り立ちが告知用のwebページを元に説明されました。

「ふるまいとピント」

上記告知サイト掲載のテキスト中の「身動きを試みる」という言葉が有原さんの制作の重要な部分をなしていることが語られました。特定の空間や対象を写すのではなく体を使い、形を描いてみて、筆跡の見え方を検討し、できることはないか考える。それを繰り返し継続することを即興性の中で行う方法を採用している、と。作家の意図が、期待とは異なった形で画面から現れる、その画面内の組み合わさり方と作家の応答関係が手ごたえになる、とのことでした。

個展タイトル「ふるまいとピント」は、作家の身動きが画面内の組織として現われていくときに、個々のタッチが最初からはっきり輪郭を保っていた以前の制作とは異なり、油を多く含んだゆるい絵の具を採用した作品によって今回の個展が構成されていることを示していたようです。タッチとその関係がピンボケになる、画面から手ごたえが帰ってくることが遅くなる、しかし徐々にピントが合うように作品が出来上がっていく。完成への最短ルートを目指さず、「ピント」が合うまで時間がかかるやり方の採用にも、有原さんの思考が現われているようでした。

絵になっていること、絵になっていないこと
当日は2016年に行われた「有原友一と高木秀典の作品をめぐって」というトークと、2012年に有原さんが書かれた論考の要点をまとめた資料を配布しました。僕(永瀬)からは、2016年のトーク中、水野亮さんの「有原作品には良い絵であるという見え方と、絵になっていない単なる絵の具の跡の状態が一枚の作品の中に同居している」という言及を取り上げました。加えて有原さんの特徴として、過去に展示された作品が再度・再々度手を加えられ出品されることが多々ありますが、一度「作品」として提示されたものが「作品未満」の状態の展覧会後の呼び出しによって更に手が加わることも言及し、有原さんのお考えをお訊ねしました。

有原さんからは絵画がイリュージョンを作りながら、しかし引いてみればそれがただの物質であることは絵画一般の問題としてある、しかしそれは絵が進む上で必要なことで、物質でしかないものがどのように「絵」として組織できるかを考えるのは基本的なことである、自分はそれを緊張感がある状態になるよう志向すると話されました。僕からは、浸透性の高い絵の具によるオールオーバーな抽象画が一般に深奥空間を作るのに対し、有原さんの作品はタッチがゆるいにも関わらず下層と溶融せずに分節され、結果タッチがむしろ画面の手前に出てくる感覚がある、とコメントしましたが、有原さんはそのような意図があったわけではない、ただ今回の作品はタッチが以前より画面の縁に近付いている、画面の縁は絵の具の物質性が強調されることがその理由かもしれないという答えがありました。

過去の作品からの転回
油を多く含んだ絵の具で、しかしタッチがけして混濁せずに組織されていくこと。このように、有原さんは扱いが難しい方策をとってより複雑かつ情報量の多い作品を目指しているようです。ここからは過去の作品をプロジェクター投影しながら、有原さんの「絵画の論理」を検討しました。僕からは2008年頃の作品がある達成を見せながら変化をした、そこに有原さんがどのような問題意識を見出していったのかをお訊ねしました。

比較的はっきりしたタッチを使っていった作品は、余白が埋まると緊張感がなくなり問題が生じた時に細部を弄るようになって行き詰ってしまう、また、2008年頃の作品は長いタッチをまず置いてそこに直交するような短いタッチを重ね「最初のタッチを抑えこむ」描き方だったが「そういう描き方で終わるしかない」事を危惧したとのことでした。

また、僕が有原さんのタッチの質の変化に上手くなることの回避があったのではないかと発言したことには、いや、自分は上手くなりたいのだ、しかし「上手い」というのは、いろいろなことが含みこめて初めて「上手い」と言えるのであって、ワンパターンでは真の意味で上手いわけではないだろう、いろんなことが豊かに作れることが上手いのだ、と答えられました。ここでは永瀬が有原さんのタッチの新鮮な感覚を説明するのに「子供のような」とナイーブな言い方をしたことに対し、有原さんは一貫して自分が求めている「複雑さ」や「高度さ」を提示しようとしていて、その齟齬が議論を深めることの妨げになってしまっていたように思います(この点は質疑応答でも指摘がありました)。

作品の歩みとその先
僕からは有原さんのタッチが、しかしタッチそれ自体で描かれているのではなく、余白との関係性を描出しているのではないか、そのことで作品のサイズや個々のタッチの根拠が事後的に立ち上がっていくのではないかと話しましたが、有原さんからは、それは普通のことである、余白が残っていくことは、作品の中に最初の頃からの「ふるまい」とその検討の跡がなるべく保たれていることが必要だった結果だと話がありました。

2016年のトークでゲストの古谷利裕さんが発言された、過去に共有されていた「絵画」という信用・信仰が、もはや通用しないのではないかという指摘、あるいはそれへの反論として境澤邦泰さんが言われた美術史・美術批評上の絵画の有効性とは異なるものが、絵を描き継いでいくものにはあるのだ、という発言に対し、有原さんは、美術史や美術批評上の絵画の問題に、自分がアクセスできることがあれば、それはしてみたい、というポジティブな発言もありました。

質疑応答
会場からは、僕(永瀬)の有原さんの制作はルーティーンを回避しているのではないか、という発言に、ルーティーンの中で何ができるかが有原さんの制作ではないか、という指摘がありました。また、僕が有原さんのタッチを「子供のような」と表現したことやタッチと余白の二項関係を強調したことに対し、有原さんが抵抗しキャンバスの上への触れ方の技術の追求を示したことも指摘がありました。同時に有原さんの「作品にとどめを刺さない」あり方にも言及がありました。有原さんからは、理想としては最初に入れたタッチが消えてしまわず、その意味が変わり続けていってほしい、最後の最後まで可変的であってほしい、との応答があり、これが有原さんの制作の秘密の一点かもしれないと感じられました。

また、描くときの画面との距離についての質問もありました。有原さんの応答としては、距離はかなり近い、八畳間くらいの場所で描いているが、引きをとらないと描けないわけではない、たまに一歩二歩離れてみる、とのことでした。自分の描き方が近視眼的な書き方を利用しているところがある、全体のことは想像しながら、近づいている自分と引きで見ている自分の振り幅を作っている、とのことでした。絵が好きである、というよりは、絵というフォーマットを使っている、楽器などでもよかった、絵を道具として見ているとのお話もありました。

作品を、あるふるまいとその反応として組織しているならば、反応しうる限りにおいてそこに「失敗」ということが原理的にありえない、もし失敗があるとしたらそれはどういう場面になるのか。また一つのタッチの意味の更新として制作がある、ということと、一枚の作品への反応として次の作品がある、という形で、個々の作品の制作とその連続としての制作の平行関係、過去の作品の意味が、新たな作品の制作によって意味が更新されていくのではないか、という指摘がありました。有原さんからは、作品の意味の更新についてはこの指摘によって気づいた、「失敗」については、個々の色や形に対する反応だけではなく、「絵」として見たときにどう見えるのか、描きながら自分で得たものがあるのか、そういう状態になりえているかが基準になるという応答がありました。

2016年のトークに参加していた境澤邦泰さんからは、原理的に失敗がないのではなく、全部失敗ともいえる、失敗することで次のタッチが介入可能性として出てくる、しかしすべて失敗することは難しいので、失敗するために様々なことが行われているのではないか、と指摘がありました。有原さんからは、画面の状態が固定化しさまざまな可能性が消えてしまうことが「成功」であるならば、そのような「成功」はしないようにしている、という応答がありました。同じく2016年のトークに参加していた青山大輔さんからは、有原さんが獲得したものを投げうつギャンブラーのように見える、勝ち逃げをすることがないという発言がありました。有原さんからは「勝てる」ものなら勝ちたい、以前の「置いたタッチを抑える」のではなく、最初に置いたタッチの有りようを生かしていきたいのだ、という応答がありました。

永瀬の進行は拙いものでしたが、作品に囲まれた中での「私的占領、絵画の論理」第二回目は、有原さんの実直な語りと会場からの活発な質疑によって刺激的な場となりました。この感覚を次回に引き継いでいきたいと思います。

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