見出し画像

散財記⑤ ラ・スポルティバ マントラ

「一生モノ」と言い訳をして買った数多の品の中から、本当にお気に入りの一品を紹介する散財記。4回目は、ラ・スポルティバのマントラだ。

画像が無ければ、何に使うモノかさっぱり分からないだろうが、ボルダリングシューズの名称である。「ラ・スポルティバ」というのがメーカー名で、「マントラ」が製品名である。

五輪種目にもなっているので今更だが、ボルダリングというのは、クライミングの一種だ。本来は自然の中にある巨大な岩とか崖を身一つで上るエクストリームなスポーツなのだが、現在は都心部のビルの一室に設置した人工の壁をよじ登るアーバンスポーツの趣が強い。

基本的には自前のシューズさえあれば、他には何もいらないというシンプルなスポーツである。何なら友人やチームメートさえ必要ない。その点でジョギングや水泳にちょっと似ている。シンプルであることは何よりもすばらしいことだと思う。単に友人がいないだけかもしれない。

ボルダリングはかれこれ5年ほど続けている。同期入社のIくんに誘われて一緒にジムに行き、どっぷりとはまってしまった。元々、自重トレーニングを好んでやっていたこともあり、最初からそれなりに登れたことで一気にのめり込んだ。これがゴルフだったら目も当てられない。ドライバーだのアイアンだのと無限に金が飛んでいく。サングラスやらキャップやらファッションにもそれなりに気を使わなければならない。

その点、ボルダリングはシンプルだ。シューズさえあればあとはTシャツとハーフパンツで終わりである。滑り止めのチョークを入れるチョークバッグもあったらあったで嬉しいが、特段なくて困る性質のモノでは無い。外岩に上るようになればマットやら移動用の車やらが必要になるのかもしれないが、とりあえずそんな金も時間もないので、自前のシューズを求めることにした。

「シューズを買うなら、神保町の石井スポーツが良いよ」という同期Iくんのアドバイスに従って、仕事帰りに石井スポーツに赴く。ちなみに、同じ名前でもIくんと石井スポーツには何の関係もない。純粋に好意からおすすめしてくれたのだ。ありがとうI井くん。

店内に入ると、なるほど、たくさんのボルダリングシューズが並んでいる。これまで全く興味の無かったジャンルだったので目に入っていなかったが、改めて世の中には色々なモノが売っているのだなと実感する。

そして、何を買ってよいのかがさっぱり分からない。一応、事前情報としてボルダリングシューズには底がペタッとしたフラットタイプと、つま先がグッと下を向いたダウントゥタイプの2種類があるということだけは調べておいた。初心者には履きやすく足なじみの良いフラットタイプが良いらしい。ふむふむ、確かに見た感じ普通の靴に近いのはフラットタイプだな。

しかし、陳列されている商品を見ても、値段の差と見た目以外に優位な差が無い。ジャケ買いするのもありだが、今回の場合、ファッショングッズというようも実用品なので、できれば機能重視で選びたい。目的としては、ジョギング用のサングラスに近いかもしれない。

あれこれ悩むのは時間の無駄なので、素直にプロの手を借りることにする。少しのことでも先達はあらまほしき事なりである。カウンターでボルダリングシューズを買いたいと伝えると、いかのも熟練クライマーという感じの店員さんが登場した。

初心者向けのボルダリングシューズを買いに来たという旨を伝えると、「ボルダリングシューズというものはありません。ここにあるのはすべてクライミングシューズです」と訂正された。言葉の定義から入るあたりがプロ根性を感じさせて好ましい。特に反論する知識も気力もないので、素直に言い直すと、店員さんは「初心者ならこれしかありません」と1足のシューズをすすめてくれた。

そのメーカーこそ、スポルティバだった。正式には、”La Sportiva"。イタリアの登山メーカーだ。スポルティバってのはスポーツくらいの意味で、”La” は定冠詞の ”The” なので、「ザ・スポーツ」みたいな意味である。この場合のThe の使い方から考えると「これぞスポーツ!」みたいな感じかな。いずれにしても、登山靴のメーカーにしては、いささか大げさな名前だと思う。イタリア的大風呂敷を限界まで広げたという感じがする。嫌いじゃないその感じ。

すすめられた製品は、フラットタイプで2本のベルクロで締め付けを調整するタイプだった。ライトブルーとイエローに塗り分けられたシューズで、一目見て気に入った。スニーカーだったら絶対に選ばないタイプだが、ボルダリングシューズなら許せてしまう。なぜだらう?

「いいですね。履いてみて良いですか」というと、店員さんはおもむろにうなずき、ビニール袋を差し出した。何でも、裸足にこのビニール袋を履いてから試着するのだという。ボルダリングシューズは裸足で履くことが多いための措置のようで、多少小さくても履きやすいというメリットがあるそうだ。世の中、色々なお作法があるものである。

さて、そんな訳で薦められるがままに、39ハーフというサイズを履いてみたのだが、これがめっぽうきつい。日本サイズに換算すると、25㌢くらいらしいのだが、体感23㌢くらいの感じがする。ビニール袋の上から履いているので、スルッと入るのだが、これが裸足になると諸々の摩擦やら何やらが発生して、履くのに難儀しそうな感じがする。

私は普段、スニーカーで25.5~26㌢あたりを好んで履いている。したがって、このシューズもサイズ的には問題なさそうだが、足にギュギュギュっと隙間無く密着しているため、とにかくきつく感じる。店員さんによると、これでも緩めらしい。ボルダリングの世界ではそこからさらに1サイズくらい下げるのが一般的だそうだ。

靴と足を一体化させることで壁のホールドを効果的にグリップすることができるそうだが、それにしてもきつい。足が変形するんじゃないかというくらいのきつさである。ふと、中国の纏足を思い出す。

「本来であれば、ここからもうハーフサイズ下げるくらいで良いのですが、初心者ということで、まあ、このくらいのサイズでいきましょうか」とプロ店員は涼しい顔で言う。「いきましょうか」とかいうレベルではないが、こういう時のサイズ選びはプロに従うと決めている。当人は全く意識していないが、実は、ひっそりと権威主義的パーソナリティーなのかもしれない。監督者の指示に従って電流をあげまくるタイプ。

そんな訳で購入した初代スポルティバだったが、これがすこぶる優秀だった。最初は両足を万力で締め上げられているようで、5分と履いていられなかったが、何回か履くうちに革がなじんできたのか、次第に足の形にぴったりとフィットするようになってきた。

痛みを気にせずに登れるようになると、競技自体がどんどんと楽しくなる。毎日のようにジムに通っていたせいか、1年後には3級~2級くらいのグレードを登れるようになってきた。半分くらいは、あの店員さんのおかげかもしれない。ありがとう店員さん! めっちゃ痛かったけど。

ただ、上達してくるにつれ、初心者用のシューズでは少々物足りなくなってきた。フラットタイプは履きやすい反面、グリップ力が弱く、傾斜のきつい壁ではホールドに足がうまく乗らないことも増えた。

そして、何よりも緩くなってきた。買ったときはあれだけきつく感じたのに、使い込んでいくうちに革が良い感じで伸びてきたらしい。最初はベルクロを止めずに壁を登っていても全くずれなかったが、1年経ってみると、ギュウギュウに締め付けてもまだ余裕がある。あの店員さんの見立てはかなり正確だったことになる。すごいよね、プロって。

仕方ない、買うしかあるまい。

そう決断した私は、2代目としてスポルティバのパイソンというモデルを購入した。

パイソンは、ダウントゥでベルクロが1本のタイプだ。横から見ると、まるで猛禽類のくちばしのようにつま先がぎゅっと下を向いている。実にカッチョ良い。サイズは、1サイズ下げて、38ハーフ。これなら、長く使えるはずだ!

……と思ったのだが、今度はサイズを下げすぎた。足が痛すぎて登るどころではない。購入したのが冬だったこともあり、壁からちょっとジャンプして降りるだけで、骨が砕ける。っていうか砕けた。後で調べたら、きついサイズを選んで悶絶するのは、2足目のシューズあるあるらしい。そういうのは早く言って欲しいなぁマジで。

それでもがんばって1年ほど履いた。一応、ベルクロで止めるタイプなので、そこをユルユルにして履いているうちに、何となく足になじむようにはなってきた。ダウントゥでつま先がとがっているタイプなので、小さなホールドもしっかりと踏める。これまで、腕の力に頼ってよじ登ってきたのだが、ずいぶんと細かい足さばきができるようになったと思う。

ただ、やはり、痛いモノは痛い。トゥにつま先をぎゅっと詰め込んでいるので、長く履いていると血が止まりそうになる。つま先が圧迫されすぎて、実際に指の爪が内出血したこともある。たまりかねて、次を探していた時に出会ったのが、冒頭の「マントラ」である。相変わらず、主役が出てくるまでが長い。

マントラは、これまでの2足と違って、ベルクロが無いスリッポンタイプだ。スリッポンを選んだのは、登るたびにベルクロをベリベリつけたり剥がしたりするのが面倒くさかったのと、何となくスリッポンの方が「デキる感」を演出できそうな気がしたためだ。前者はともかく、後者は登って見れば一目瞭然なのだが、こういうものは気分だからね。

スリッポンタイプはベルクロがない分フィット感は高まるが、サイズ選びが難しい。しかし、ゆるい1足目とキツすぎる2足目を買った私に死角は無い。最初のサイズが39ハーフ、2足目が38ハーフ。だとすれば、3足目は39がベストだろう。間違いない!

とにかく軽いというのも決め手の一つになった。片足150gという脅威的な重量である。ほとんど履いていないに等しい。生身で壁に張り付く競技の特性上、身につけるものは軽ければ軽いほど有利である。何なら、体重も軽いに越したことは無い。必要な筋肉をつけつつ、余計な重さとなる筋肉はつけないというのが理想だ。

ボルダーを見ていると、鋼鉄製のロープみたいにギリギリとした筋肉が全身を覆っているのがわかる。大胸筋も大臀筋も必要以上に隆起していないが、しっかりとした筋肉がついている。万年筆でいうと、モンブランM149ではなく、M146。ペリカンM1000ではなく、M600的な筋肉だろう。人もかくあれ、といった感じである。M149は欲しいけれど。

マントラを選んだ理由は他にもある。
「P3 SYSTEM」だ。

「そんなこと言われても……」という感じだが、要するに靴底のシェイプがへたらない構造ということである。

ダウントゥタイプのシューズは、鳥の嘴のように爪先がグッと下にカーブを描いている。ボルダリングでは、爪先をギュッと縮めてホールドに乗り込む。そのため、ボルダリングシューズは靴底をカーブさせて、その動きをサポートしてくれるのだが、使っているうちに靴底がへたり、カーブがなくなってしまう現象が起きる。

プロ散財家の視点から言えば、合法的に新しいモノを買えることになるのでラッキーなのだが、ボルダリングシューズは自分の足に慣らすまでが大変だ。とにかく痛いし、慣らし期間中はどうしてもパフォーマンスが落ちる。履き慣れた靴は何物にも代え難い。

メルカリにはサイズが合わずに出品された哀れなシューズたちが山ほど出品されているが、そうしたシューズを安く買って使っている人たちもいるらしい。なんでも、ある程度柔らかくなっているので、すぐに使える上に安いというのがメリットだそうな。弘法筆を選ばずと言ったところだろうか。

このシェイプへたる問題を解決してくれたのが、スポルティバ先輩の「P3 SYSTEM」なのだ。長期間使用して足に馴染んだシューズが、新品の時と同様のシェイプを維持している。なんと画期的なことではないか。何が「P」で何が「3」なのかはさておき。

マントラは、誕生日プレゼントで家族にもらった。その前の年は、「コモンプロジェクト」のアキレス、その前は「on」のクラウドだった気がする。毎年、靴をもらっている。「一生モノ」が靴箱にゴロゴロしている。中古の軽自動車2台分くらいはつぎ込んだんじゃないだろうか。まさに、「江戸の履き倒れ」である。出身はT県だが、人生の半分くらいをお江戸東京で過ごしているので、江戸っ子の気分くらいはわかる。大事だよね足元って。

そんな訳で、かれこれ2年くらいマントラを使っている。すこぶる快調だ。ソールが薄いので穴が空いてしまわないか心配だが、そうなったら修理に出して使いたいと思っている。ただ、最近色違いが出たっぽくて、そっちも気になっている。次に買うのは色違いか、はたまた新作の「マンダラ」にするか。心は千々に乱れている。その前にもっと練習しないといけないのだが……。

余談だが、シューズの名前になっている「マントラ」とは仏教の真言のこと。「オンアミリタテイセイカラウン」とか「オンアビラウンケンソワカ」とか、そんなやつ。密教では極めてパワーを持つ言葉として扱われる。単なる靴の名前としては、ずいぶんと大げさなものをつけたものだと思う。

と言っても、仏教用語のニルバーナ(涅槃)も今やグランジロックの元祖だし、キリスト教用語のトリニティ(三位一体)もカルティエの3連リングになっている。ボルダリングシューズが「マントラ」であってもそう目くじらを立てるものではないのかもしれない。

その意味では、西洋の人名にも聖なる感じの名前が実に多い。ジョンはヨハネだし、ポールはパウロだし、ジョージはゲオルギスだし、リンゴは……リチャードか。これは、たぶん聖人じゃないけれど、一般的に使徒や聖人から名付けられた人は多い。それだけ宗教が生活に根付いているということなのだろう。

その点、日本で聖人の名前をつける風習はほとんどない。鈴木空海さんとか、山田法然さんみたいな人にはついぞお目にかかったことがない。偉人は偉人でも、歴史的偉人の名前くらいだろう。

しかも、幕末に偏っているような気がする。「龍馬」とか「勇」とかね。「信長」とか「家康」みたいな名前はあまり聞かない。どっちも神に近い感じだし、宗教からちょっと距離を置きたいのは、極めて日本的な感覚なのかもしれない。

もっと言えば、「空海」以外の宗教的偉人は店の名前でもほとんどないのではないか。寿司屋「空海」はありそうだが、居酒屋「法然」とか、小料理「日蓮」みたいな店はあまり流行らないのだろうか。

ダンスクラブ「一遍」とか、サウナ「道元」なんてちょっと行ってみたいけどね。「只管打坐」みたいな感じで座るんだろうな。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?