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「英語教育」2月号で、オルハン・パムク『赤い髪の女』(宮下遼訳、早川書房)を書評しました。

「アジア文学への招待」第5回はトルコの巨匠、オルハン・パムクの『赤い髪の女』(宮下遼訳、早川書房)を取り上げました。

少し思い出ばなしになりますが、僕がイスタンブールを訪れたのは2009年でした。大学生の夏休みで暇すぎたからアジアを周遊していたときにドバイ経由でやってきたんですね。ボスフォラス海峡を挟んで、東側がアジア、西側がヨーロッパと、まさしく西と東の境界線上にあるイスタンブールは文化の混淆する街でした。路地裏を歩けば、パンの芳しい香りが充満していて、かと思えば、西アジアの料理のスパイシーな匂いが漂ってくる。サバサンドという発想は、そんな文化の混淆のなせる技だと思います。(違ったらごめんなさい。)

なんとか宮殿。名前忘れた。

さて、オルハン・パムクはこの土地に響く、そんな東西の文化の衝突する音をこれまでも物語に刻んできました。『赤い髪の女』は、パムクのエッセンスがぎゅっと凝縮した一冊で、個人的にはこの作家の入門書として読まれるべき一冊だと思います。

1980年代に、ある井戸掘り職人に弟子入りした〈私〉の成長が語られるこの小説は、ギリシャ悲劇の『オイディプス王』と息子を殺す勇者ロスタムを歌ったイランの叙事詩「王書」が下敷きになっています。東西における子殺し/父殺しの代表作を一人の男性の人生のなかに混淆させることで、「父と子」という近代を呪縛してきた強固な物語にケリをつけようとしているのではないか。僕はそのようにこの作品を読み、書評では次のように書きました。

父に抗う西欧的な男性。権威を振りかざすアジア的な父親。その相剋の内側で〈確かな自分〉になろうとする〈私〉。僕は、この小説に「父と子」の物語の権威性を相対化する力を認めます。後半、ある人物が父とは〈子供にとっては世界の入り口であり、中心〉だと言う。父の不在を抱え続けた〈私〉は、その存在の特権性を否定する。あるいは、別の人物が「父と子」の物語では男は英雄になるが、女性には〈涙が残されるだけ〉であることを嘆く。「父と子」の物語の語り直しは、そこにある虚妄を暴いていくわけです。

まさに、トルコにおける「成熟と喪失」をしめやかに謳いあげた、近代殺しの一冊。東西の子殺し/父殺しの呪縛に取り憑かれた〈私〉を取り込むように、イスタンブルが発展=肥大化していくのも象徴的です。ぜひ、ここからパムクに入門し、代表作『僕の違和感』や『私の名は赤』に挑戦してみるのもいいかもしれません。

イスタンブールには猫も多いんですよ。ぜひ一度訪れてみてください。

猫@イスタンブール

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