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自分ていうものの境界線が世界をつくる

さっき夢を見た。夢解釈をしていたら、頭が猛スピードで回転したので、記しておこうと思う。 どこまで自分とするのか。 どこまで助けるのか。助けようとするか。 まっすぐに魂を生きられない人を絶対に置いていかないという信念があった。 を私は持っていた。 目覚める人のサポートがしたい、という夢。 でもこのことはつまり、 私のまわりの人は私によって目覚めて欲しい、という信念をつくっていた。 全部叶ってる世界がある。 トラベルの時におかしかったのは、私が注目すればするほど、その世界がおかしなことになるということ。 環境問題に注目するほど、直前の世界にあったはずの環境技術が抜け落ちた世界に来てしまう。もしくは馬の問題に注目するほど、馬が過酷な状況に置かれているおかしな世界に来てしまう。 私は叶ってない世界でその一助になりたいがために、ミクロ的に見るために、結果叶ってない世界が創出される気がしてならないのだ。それは定規のミリの単位を見ていたら、自分が小人になって、ミリの単位の世界に来てしまった感じ。 逆にいうと全部叶っている世界がある。ということ。パラレルワールド的に。でも多分それは地続きだ。 自然と人間が調和していて、みんなが好きなことをして生きて、人々がお互いを認め合っている世界。 やりたいこと→ない世界であるを生み出すこと→結果的にない世界が身の回り、世界が創造される→ 自分のやりたいこと→「ない」世界を探して「ある」を生み出すことだとしたら→ない世界は身の回りで無限に創出される→社会を変えたいと思うたび社会がろくでもなくなっていく→どこまでを自分とするのか 自分ごととするのか どこまで世界を信じきれるか することなくなったら面白くないもんね。 そういう意味でまわりの人は私に大きな視点で見ると付き合ってくれている人。 人を元気づけたい→まわりの人が元気ない役回りをやってくれる。 まわりの人は本当に私のことをスピリットから愛してくれている人。そういう役回りを演じてくれている人。私に完全に合わせてくれている人。魂かけて私の成長に付き合ってくれている人。 世直ししたいと思うたびに世界はろくでもなくなっていく。 さて、私は明日からどう生きようか。 でもこれだけは言える。私を取り巻く人々が私の信念を命をかけて叶えてくれようとしている。私たちは彗星だ。光輝く。まわりの人が世界を含めて私のことを守って導いてくれている、人生をかけて。いのちを燃やして。 私はそう、世界の中心で、そのありがたさに泣きはらしていることしかできない。 そして思うことは、馬、動物、植物たちはきっとこのことを知っているのだと思う。私たちに付き合って、環境問題が悪化した世界に残ってくれているのだ。逆に馬や植物たちは簡単にパラレルワールドを行き来、生き来できるのであろう。 あーーーーーーーーーーーー、ほっとした。 ノアの方舟はとっくの昔に出立していたのだ。つまり、私が残った世界というわけ。それもみんな私に付き合って残ってくれた世界。 世界の仕組みには本当に愕然とするけど、本当まじ愛でしかできてないわこの世界。なんだよこの世界。うんざりするほど愛されてる。 執着こそが愛。執着したもので世界は作られる。心残りなもの。でこの世界は創られている。その心残りをはずそうなんて、できやしないよ。だって、忘れられない。私はこの世界を愛しているんだもの。

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