井筒俊彦『意識と本質』(1)
井筒俊彦著『意識と本質』。ただ読んでいるだけでも刺激的ではあるが、より体系的に理解したいと思い、章ごとに自分なりにまとめを書くことでより理解を深めたいと思った。このトピックは個人的な勉強と備忘を兼ねたものなので、語の使い方や解釈に誤りがあるかもしれないが、まずは気楽に書いてみたい。
【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】
〜井筒俊彦「意識と本質」Ⅰ章〜
私たちがこの世界の中でいろいろなものと出会う場合、これは「花」これは「机」として意識の中でとらえていく。それは「花」を見た時にそれを「花」と意識させる「本質」が花の中にあるからであり、もしこの「本質」がなければ私たちはそれを「花」と意識することはできず、また「花」と他のものを区別することはできず、渾沌とした世界のなかで頼りなく漂うのみであろう。そして「花」と名付けているのも、その「花」の本質と結びついているからであろう。だから例えば実際に目の前に「花」がなくても「花」という言葉を聞いたり読んだりすると、意識の中で「花」のイメージを思い浮かべることができる。これが私たちの生きている経験的世界である。
しかしもし眼前の花から「花」の「本質」「名」を失った時、私たちの意識は方向性を失い、ある「ねばねばとした」目も鼻もない不気味な存在の渾沌の泥沼にはまりこんでしまうだろう。井筒はその事態をもっとも見事に描いた例としてサルトルの「嘔吐」をあげている。
「ついさっき私は公園にいた。マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地に突き刺さっていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆることばは消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱いめじるしの線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれだった、恐ろしい塊に面と向かって座っていた。」(井筒俊彦によるサルトルの引用)
「しかしこれは表層意識の立場からの発言であって、深層意識に身を据えた人の見方ではない」と井筒は言う。確かにサルトルがあの瞬間体験したのは深層意識で起きたことだが、あくまでも表層意識の側に立ちそこから垣間見えた事態であり、だからもはやそこでは「嘔吐」するしかないのだ、と。
これに反して東洋の精神的伝統では、深層意識が拓かれ、そこに身をおいているので、このような場合に「嘔吐」に追い込まれない、と井筒は言う。
ここで井筒は主に3つの例を挙げる。1つ目は大乗仏教、2つ目はシャンカラの不二一元論、3つ目はイスラムにおけるイブン・アラビーの存在一性論。
まず1つ目の大乗仏教から。経験的世界において「花」を「花」として名付け、「花」として意識を向かわせる「花」の「本質」は本当は実在せず、実在しないものがあたかも有るもののように見えてくる「妄念」に過ぎない、と言う。深層意識に立ち、絶対的無分節者がそのまま現れてくれば経験的世界においてあらゆる存在者を互いに区別する「本質」はことごとく消え失せてしまう。その絶対的無分節者のことを「真如」というが、それは「空」であり「無」である。(その経験的世界の「本質」を通さずに存在を実践的に捉えなおそうとするのが「禅」であるが、それは後に詳述)
2つ目のシャンカラの不二一元論も経験的世界の「本質」を否定するところから始まり、現実の世界を「名と形」の世界として「妄念」によってもたらされた虚構である、とするところも大乗仏教と共通している。しかしその終着点は大乗仏教と正反対で、大乗仏教では深層意識における頂点、絶対的無分節者を「空」「無」として捉えるのに対し、シャンカラの不二一元論ではその頂点を「ブラフマン(梵)」という絶対的一者、有的充実の極限、最高度にリアルな実在として捉える。経験的世界で私たちが見るものは、私たち自身の意識によって様々に分節されて現れるブラフマンの仮象的形姿にすぎない。
3つ目、イスラムにおけるイブン・アラビーの存在一性論でも、経験的世界は、絶対的無分節の「存在」が様々な「限界線」によって様々に分節された形で私たちの表層意識に現れたものであり、私たちの側の意識の次元転換によって「限界線」が全部取り払われてしまえば、「存在」が絶対的無分節な存在のまま捉えることができる、という点で先の2つと共通している。逆に大きな違いとしては、経験的世界の目の前の事象は、私たちが絶対的無分節者をいわゆる「妄念」的に捉えたものではなく、その絶対的無分節者が自ら分節的に自己展開していき、多者となって存在として私たちの眼前に現れる、とするところである。そしてこの絶対的一者から多者に至るこの存在展開の過程の途中にイブン・アラビーはひとつの中間領域を置き、それを「有無中道の実在」の領域と呼ぶ。この「ある」とも言えず、「ない」とも言えない中間的な存在範型が「存在」の原形、つまり「本質」の原初的形態である。言い換えると「有無中道の実在」が、もう一段下位の存在領域である日常経験的世界において、「本質」として私たちの意識に映る、というものである。
いずれにしても表層意識でとらえる存在たちは「妄念」や「有無中道の実在」によってもたらされる「本質」によって規定され、上記の思想は、この「本質」を否定するところから始まる。「本質」を否定し、その存在を深層意識によって捉えようとしたときに、大乗仏教で言うところの「空」や「無」としての「真如」あるいは「ブラフマン」、あるいは「絶対的一者」にたどり着く。さらにそれらから経験的世界に向けてどう変質し、あるいはどう展開するか、のメカニズムを明らかにしようとした思考体系と言えるだろう。
否定的な意味合いで使われてきた「本質」だが、井筒は東洋哲学の伝統の中にはこれとは正反対の「本質」の実在性を全面的に肯定する思想家たちがおり、また、それを語るためには、やや漠然として使われてきた「本質」という言葉をよりはっきりと規定し直す必要がある、として次章に向かっていく。
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