メディア抜きの生活を考える

 既存メディアと断絶したうえで、健康で文化的な生活を営むことは可能だろうか、をテーマに本稿を進めていきたい。情報化社会が本格化するまで、森羅万象に関する一次情報はすべて新聞やテレビなどの記事や番組を通じて知り得てきた。パソコンの普及でインターネットが身近なツールになると、市井の人々はポータルサイトや企業のホームページから直接情報が得られるようになり、既存メディアを介する必要がなくなった。例えば、ニュースや天気予報、交通情報などはポータルサイトですぐに見られるし、テレビの番組表はテレビ局のホームページにアクセスすればいい。小売店の折り込みチラシや飲食店の特典クーポンも、ネットから入手することができる。

 ニュースは既存メディアがポータルサイトに配信しているので、ニュースサイトを見ないかぎり断絶は不可能だが、今まで新聞やテレビ、ラジオ、雑誌から得ていた生活情報は、ネットで簡単に探せるようになった。料理の作り方を知りたければ、食品メーカーのホームページやレシピサイトにアクセスすればいいし、公共サービスの内容を知りたければ、行政機関のホームページで概要が把握できる。個人や個人の集合体によるサイトなら、その信憑性を検証する作業が必要だが、企業や役所ならサービスの当事者ゆえに情報に対して責任を負っているので、よほどのクレーマーやひねくれ者でないかぎり、それらを疑ってかかろうとはしないはずだ。

 本来、役所や企業のプレスリリースは既存メディアだけに発表し、各種媒体からの情報発信に頼らざるを得なかったが、ネット普及によって自らのホームページから市井の人々に直接知れ渡るようになったほか、企業にとっても競合他社や業界内の動向が知りやすくなった。つまり、誰でも役所や企業のホームページに辿り着けることで、既存メディアが取捨選択または加工したニュースに頼る必要がなくなり、しかも詳細が知りたければ担当部署への問い合わせもできる。また、ネット上から検索できる関連情報と絡めたうえで、客観的な分析や判断へと導ける。

 誰もが能動的に情報収集する気になれば、テレビやラジオの生活情報番組など廃れていく一方だが、それが急進的に進まないのは視聴者の生活情報に対する関心度が政治経済やスポーツ、芸能のニュースに比べて低いのと、出演者やパーソナリティのファンが一定数いるからだ。既存マスコミへの依存度が高い高齢者や主婦の支持さえあれば、そこそこの視聴率が取れるものの、番組内容はネット上の情報を焼き直す程度で、経済評論家や料理研究家といった専門家が御意見番よろしく、それらに箔をつけるように見せかけて当たり障りなく仕上げる。

 ネットの普及で誰もが瞬時に情報を知り得るということは、既存メディアから一方的に垂れ流される情報に依存する必要がなくなったことを意味する。例えば、新型コロナウイルスに関して最低限の情報を知りたいなら、内閣府と厚生労働省、地方自治体のホームページか、ポータルサイトにアクセスすれば十分だと思う。既存メディアもそれらの情報を基に記事を書いたり、番組を制作したりするのだが、そのようなコンテンツは果たして本当に必要なのか。個人にとっては感染症の予防と日々の生活不安の解消が最も重要なはずで、それらに関する情報は行政機関のホームページに詳細がまとめられ、相談窓口も設けられている。医師ら現場の専門家の意見もブログなどで知ることもできる。

 ネット上で最低限の情報が得られるのなら、既存メディアのコンテンツはなくてもかまわないのだが、各種媒体は「権力の監視」を錦の御旗に新型コロナウイルスに関する情報を発信し、政権批判と絡めながら読者や視聴者を誘導したりもする。それに反発する人々はネット上で「マスゴミ」と罵り、賛同する人々はSNSで為政者への不満をぶちまける。そして、コンテンツの制作に携わる人々は既得権益を守ろうとする。電子掲示板やSNSに張りついている人々が、既存メディアからの情報発信を待ち構えているわけで、日頃批判的な人々ですらそれらをネタに自己主張を繰り返している。

 また、ネット世論の中には役所の発表に従うのを「情報弱者」と蔑む見方もあるようだが、ネット上に蔓延っている種々雑多な情報に惑わされ、いたずらに恐怖心を煽るのが一番迷惑な存在であって、そういう声の大きい人々からの情報がデマとなって拡散されていく。それなら役所の発表以外は遮断するのがデマからの防衛策で、対応が後手に回っているという政権批判があるなら、選挙などで民意を示せばいい。個人が能動的に情報を集め、それらをあらゆる角度から分析、検討したうえで日々の行動に反映できれば、既存メディアのコンテンツに依拠する必要はなくなる。

 しかし、個人の情報収集能力には限界があり、ポータルサイトが自前で取材機能を持たないか、持っていても稚拙であれば、既存メディアから配信されるニュースに頼らざるを得ない。むろん、それらに頼らなくても日常生活は可能だが、社会成員として生きていくうえでの最低限の常識や道徳さえ身につかなくなるおそれがあるから、人々はニュースを欲している。ニュースと一口に言っても、事実や現象、結果をそのまま客観的に報じるのもあれば、それらに解説を加えたり、キャスターの主観を交えたり、有識者の意見を反映したりするなど様々な種類がある。地上波のキー局は朝から晩までニュースを素材とする情報・ワイドショー番組であふれかえっている。

 これらの番組は、事実や現象、結果に対して出演者が主観を加え、時には茶化したり歪曲したりして世論を誤って誘導するケースも少なくない。半世紀以上も続いているから、平均的な日本人がこういう性質の番組を欲しているのかもしれないが、誰もが能動的に情報の真贋を見極め、自らの責任と判断で社会生活が営めるなら、もはや見る必要がない。出演者の発言がネットニュースで報じられ、電子掲示板やSNSで取り上げられるが、たとえネット上でバッシングの嵐が吹き荒れようとも、それはノイジ―・マイノリティとみなされ、既得権益者はびくともしない。

 既存メディア側の人間が「嫌なら見るな」と居直っているのだから、見る価値のないコンテンツは無視すればいいはずなのだが、普段「マスゴミ」と罵っている人々が情報・ワイドショー番組での発言をネタにネット上で繋がり合う。番組を見なくなると、彼らはネット上での繋がりを失うことになるから見続けざるを得なくなる。ネット依存者が既存メディアとの関係を絶ち、それらを凌駕する世論を形成するのが理想的だが、彼らの知識や教養、倫理観では明らかに力不足だ。

 既存メディアを信用せず、ネット上ですべての物事を知った気になるのも大変危険で、その見極めがあやふやな人々が多いから、テレビや新聞、ラジオなどを拠りどころとする。誰もが自由に情報を収集、発信できるようになったとはいえ、能動的にあくせくするよりも受動的に甘んじたほうが想像力を働かせずに済むわけで、だからこそ既存メディアが幅を利かせている。情報・ワイドショー番組の場合、人気芸能人を司会者やレギュラーに起用してファンの視聴を誘い、コメンテーターと称する知ったかぶりの自称専門家がしたり顔で旬の話題を語る。それをよかれと思っている風潮が続くかぎり、既得権益者と資本主義社会の持ちつ持たれつの関係が続くだけだ。

 そもそも既存メディア、とりわけテレビは市井の人々を積極的に活用し、面白がることでコンテンツを充実させてきた。時には先鋭的で、「俗悪番組」などとの非難に晒されながらも、作り手は予定調和を嫌い、外部からの批判に対しても信念を貫いた。昨日の視聴者が明日のスターになれる夢も与えてくれたし、犯罪者に転落する危険性も潜んでいた。毒にも薬にもなり得るのがテレビとの関係性だったが、徐々に大手芸能プロダクションが番組そのものを囲い込んでしまい、何の後ろ盾もない市井の人々が表現できる場は少なくなった。資本主義社会からの広告費は、コンテンツの制作費や出演者のギャラに変わる。視聴者もまた資本主義社会の成員で、日々の衣食住に伴う消費行動の積み重ねが既得権益者の懐に入るという現実を鑑みれば、「嫌なら見るな」の一言はよりいっそう尊大に聞こえてくる。

 市井の人々のテレビに対する期待度は千差万別だが、ネットでの繋がりを求めている人々もドラマやバラエティ、情報番組などのコンテンツを話題に盛り上がる。ネットでの動画配信サービスも、キー局が資本参加しているし、ポータルサイトのニュース記事も配信している。既存メディアのネットへの歩み寄りは、多角的な展開で自前の媒体を守ろうとする経営戦略で、それを支持する広告主がコンテンツ制作の原資を投下する。しかし、新型コロナウイルスの影響で未曽有の経済危機が続いたら、広告収入の大幅減は避けられなくなる。その際に今と変わらぬコンテンツを続けられるかどうかだ。

 地球規模での感染と国際社会の新たな対立構造を引き起こしている新型コロナウイルスは憎んでも憎みきれないが、不謹慎を承知で書かせてもらうと、既存メディアが肌身離そうとしない既得権益を奪い取る期待も大きい。セリ市で高値で落札されたにもかかわらず、まったく賞金が稼げない競走馬がいるように、地上波のコンテンツは視聴率が取れないのに高いギャラの有名人の雁首を揃えただけの接待的要素の強いものが、バラエティや情報・ワイドショー番組で顕著に見られる。それらが延々と放送できるのも資本主義社会に支えられているからで、経済危機によって広告収入の大幅減が続くと、低予算での制作を余儀なくされる。既得権益者の椅子取りゲームも始まり、彼らのギャラも軒並み減っていくだろう。

 極論すれば、キー局が一つなくなっても日常生活に困らないほど、現在のテレビはマスメディアの役割を果たしていない。どのチャンネルも大手芸能プロダクションの広報番組という色が濃く、ワイドショーだけでなく権力を監視する報道の領域にまで首を突っ込んでくる。そこでの表現が単なる戯言で済めばいいが、ネットニュースで報じられるや電子掲示板やSNSに拡散され、賛否両論が飛び交う。芸能人の発言など放っておけばいいものを、ネット民は批評せずにはいられなくなる。既存メディアを目の敵にしながらも、実はそれらから目が離せない彼らにとっては、もしキー局が一つなくなったら暇つぶしのネタも一つ減るのだから、かえってショックを受けるかもしれない。

 新聞に比べて取材能力の劣るテレビは、一次情報の映像を瞬時に提供できることで新聞より優位に立っていたが、今やネットも同じ土俵に立っている。しかも、ネットによる配信はユーザーのコメントも即座に反映できるようになっていて、ユーザー同士の繋がりも楽しめる。速報性のアドバンテージがなくなり、視聴者からのクレームを過度に恐れるあまり、当たり障りないコンテンツを大手芸能プロダクションから供給されるタレントと共同で作り上げる。横並びの番組制作が続いているのは、資本主義社会がテレビに対して まだ寛容だからで、経済危機が長引けば広告費の投入を打ち切る企業や団体が出てくるだろう。

 一次情報の映像を瞬時に提供するだけでは、各社横並びとなるために差別化が図れないし、大手芸能プロダクションがコンテンツに絡んできても、各社横並びとなる。キー局の個性が失われていくのを、現場の既得権益者たちはわかっているくせにごまかし続けてきたから、市井の人々はテレビを信用しなくなり、ネット上で非難を繰り返している。普遍性よりも特定の世代や思想に絞った番組制作に偏っているから、事実や現象、結果だけを伝えるNHKのニュースより視聴率が取れない。価値観の多様化に対応しきれておらず、むしろそれらの声に耳を傾けようとしない旧態依然な業界体質が続くなら、視聴者の想像力はますます低下していくだろう。

 既存メディアは一次情報を提供するだけでは各社横並びとなるから、それらに解説や論評を加えたり、有識者の主張を交えたりしたコンテンツを提供している。民間放送は受信料が無料だが、新聞や雑誌は購読料がかかる。活字媒体はポータルサイトにも記事を配信しているが、紙(誌)面の一部に限定され、社説や特集は自社サイトでしか見られず、一定の閲覧数を超えれば有料となる。新聞がテレビより取材能力に勝っているのは明らかだが、全国紙は現政権に対して是々非々ではなくアンチとシンパにはっきり分かれ、地方紙は地元の政財界と一蓮托生なので、「権力の監視」と「客観報道」のバランスを保つのが難しくなっている。

 報道の客観性を保つなら、事実や現象、結果だけを記事化し、それらのニュースに対する分析や判断は読者に委ねるべきだが、それでは新聞社や記者の存在意義が問われてしまうから、社説や解説、コラムが紙面を埋める。ニュースをわかりやすく伝えるうえで、それらの記事は読者の役に立つのかもしれないが、大学進学率の上昇など日本人の知的水準が高くなっている今日においては、既存メディアの報道姿勢を疑う人々も少なくなく、新聞も例外ではない。記者個人の主義主張の見本市に付き合わされるほど読者は暇ではないし、手放しで賛同してしまうほどお人好しでもない。

 テレビにしろ新聞にしろ、コンテンツの制作に携わる人々が直接視聴者や読者の意見に真剣に耳を傾けようとしないから、視聴率は取れないし購読部数も伸び悩んでいる。それらの原因が既得権益者の驕りだと気づいているかどうかはともかく、市井の人々との距離感は広がる一方だ。新聞社の社員が新聞を定期購読していない人々と接したら、経済的原因を差し置いて文化水準の低い人々だと軽視してしまいそうだが、それこそ新聞社の驕りであって、資本主義社会の犠牲となっている社会的弱者は、資本主義社会に寄り添い続けている新聞を隅から隅まで読む余裕はない。テレビやラジオ、ネットニュースで事足りるはずで、新聞を読んで日々の生活が精神的にも経済的にも豊かになるわけでもない。

 既存メディアが社会的弱者を取り上げる機会があるにせよ、それはSNSで情報を発信している声の大きい人たちばかりで、ネットとの関わりを持たない人々の声など拾おうとしない。コンテンツを作り上げるうえで都合のいい声だけを拾うのは単なる予定調和であって、ジャーナリズムとは言い難い。ネット普及以前は、作り手が自らの足で情報を稼がなければならなかったが、今では「SNSでは……」とパソコンやスマートフォンの画面を見るだけで素材が集まる。しかし、それらは作り手だけでなく誰でも見られるから、既存メディアが報じるよりも先に知り得ることができる。速報性において時間的制約のないネットが圧倒的に有利だ。

 既存メディアよりもポータルサイトのほうが、ユーザーはオンデマンドでニュースに触れることができるからこそ、報道各社も記事を配信している。ほとんどが無料で見られるので、新聞や雑誌を買ったり、テレビを見たりする必要もなくなりつつある。情報に金を払ってもらうハードルを自ら下げるほど、既存メディアもネットの優位性を認めているわけだが、ポータルサイトへの配信記事は基本的に事実や現象、結果だけで、中には著名人のテレビ番組やSNSの発言を元にしただけのお粗末な内容もある。大手サイトの場合、ネットでしか媒体を持たない新興メディアによる明らかに客観的視点の欠いた記事にも付き合わされることになる。

 社会成員として生きていくうえで、情報が必要なのは言うまでもない。しかし、情報への関心が高まれば高まるほど、何が正しくて何が間違っているのかの精査ができないまま、具体的な行動を起こしてしまう危うさがある。新型コロナウイルス関連の差別や偏見、晒し、買い占めなどの異常行動はSNSの拡散が発端だが、既存メディアがそれらを報じることでネットと無縁な人々にも波及し、混乱に拍車がかかる。それは世代を問わず、情報の真贋が見極められない人々と、客観的に情勢を分析、判断できない人々によって引き起こされている。民主主義と表現の自由が行使できても、その責任を果たしていない日本人は少なくない。

 既存メディアがネットの後追いしかできないのなら、情報発信者としての相対的な地位は低下するばかりだ。しかも、事実や現象、結果に解説や主観を加える人々の表現が、ネット上の無名の人々のそれよりも劣るのなら、彼らの居場所はなくなってしかるべきだが、どういうわけか既得権益者として居座り続けている。彼らはネット上で繰り広げられている自身への批判に対して被害者意識を明らかにするとともに、ネット民を烏合の衆だとみなして無視を決め込む。確かに匿名の言いがかりに怯む必要はまったくないが、彼らが余人をもって代えがたい存在なのかというと、甚だ疑問だ。彼らの肩書きと業績が、社会の最下層で生きている人々とは無縁で、むしろ資本主義社会のおこぼれに与っているからだ。

 既存メディアから一切距離を置いた生活に切り替えても、ネットから情報が集められるので日常生活に支障はない。にわか専門家の知ったかぶりに振り回されずに済むし、かぎられた情報を客観的に分析、判断したうえで行動に実行するのは、自らの想像力を養うことにもつながる。むろん、ネット上に蔓延るあらゆる情報を過信するのは危険で、それらが信頼に足るかどうかを見極められる力量も求められる。既存メディアよりも多様な価値観を知る機会が多い以上、それを頭ごなしに否定するのでなく、一定の理解が示せるような寛容さがなければ、主義主張が異なる者同士の対立に巻き込まれ、彼らに加担するなど誤った方向に導かれかねない。

 また、テレビが長年担ってきた文化的なコンテンツについても、有料という制約を受け入れればドラマやスポーツはネットでオンデマンドで見られるし、ラジオも同様に聞ける。それによってドラマの再放送は減り、バラエティと情報・ワイドショー番組のハイブリッドのようなものが朝から晩まで、全キー局でほぼ横並びに放送されている。それらを見るのが好きな視聴者がいるからこそ番組が成立しているのは言うまでもないが、既存メディアから発信される情報が本当に「権力の監視」や「文化の創造」に寄与していたら、格差社会は広がらなかったはずで、実際には資本主義社会から追放されない程度の物言いで立ち回っているだけだ。

 経済的な貧困層は資本主義社会の犠牲者で、彼らを見て見ぬふりをしてきた権力の責任は大きい。権力には既存メディアも含まれ、それらに携わる人々は既得権益を失わないように、広告代理店や大手芸能プロダクションの力も借りながら、それらの意向を強く反映したコンテンツを作り上げ、視聴者や読者に知識や教養、娯楽を与えたつもりになっているが、発信者はどこも同じような顔ぶれだから横並びの内容になってしまう。また、彼らは社会の最下層で生きている人々を番組や記事のネタとして面白がりこそすれ、本心では「自己責任」だと切り捨てて彼らの生活を改善させるための道筋を示そうとしない。

 既存メディアが全世界に取材網を張っていなければ、世界中のニュースに触れることができない。報道機関としての存在意義は今も昔も変わらないが、それらのニュースについて個人が想像力を働かせたうえで分析、判断し、日々の言動に反映できるようになれば、既存メディアのコンテンツの多くは淘汰されるだろう。わからないことがあればネットですぐに調べられるほど情報化社会が進んでいるのだから、森羅万象に対して疑問や探求心があればすぐに行動に移せるはずだが、実際にはネットで表層を知っただけの人々が偉そうに高説を垂れ、自らの思想や主義主張と相容れられない相手を攻撃するだけの泥仕合が繰り返されている。

 ネットが既存メディアよりも情報の正確性に劣るのは、そうした人々の声が大きいからで、既存メディアに依存してきた人々はまず彼らに対して疑いの目を向ける。ネットが万能ではないのは言うまでもないが、資本主義社会の犠牲となっている人々の拠りどころが既存メディアでないのも確かだ。社会的弱者が新聞や雑誌を読まず、テレビやラジオも視聴せず、ネットだけを情報源としても、決して「情報弱者」にはならないし、むしろ必要最低限の情報さえあれば、余計な情報に翻弄されず自ら考えて行動するきっかけにもなる。その結果が排外主義者だろうと極左暴力集団の一員だろうと、「思想・良心の自由」に基づく本人の責任なのだから、誰も干渉する権利はない。

 レイシストやテロリストの支持層がじわりじわりと広がっているのはネットの普及が一因だが、これを由々しき事態だと懸念するのではなく、既存メディアが黙殺してきた人々やその集団を知り得たという点で、ネットが市井の人々の思想形成に寄与しつつある。それがいいか悪いかという議論は必要だが、周りがああだこうだ言うよりも、本人が今後いろいろな情報や表現に触れることによって新たな展開になるだろう。自己批判するかもしれないし、より急進的になるかもしれない。どちらにせよ、自ら考え行動するという民主主義社会の権利を行使できるわけで、既存メディアに頼らなくてもいい。むろん、考えぬいたあげくの行動については自ら責任を負わなければならない。

 ネットは万能ではないが、既存メディアも既得権益者が守りを固めているから信頼に足らない。それなのに、様々な情報や表現がネット上にもテレビや新聞、ラジオなどにも溢れかえっている。発信者は著名人だろうと匿名だろうと、自らの主義主張が正しいと信じてやまないようだが、彼ら一個人の感情の発露がほとんどで、市井の人々もそれらに振り回されている。その結果、主義主張の異なる者同士の対立が深刻化し、どうでもいい発信すら攻撃対象となっている。赤の他人の表現に対して無関心を決め込むゆとりがなくなっているのは、社会全体が不寛容になっているからであって、その原因を作っているのが既存メディアであることに気づいていない。

 既存メディアと縁を切るには、各種媒体とそれらから派生した情報の発信者に対して徹底的に無関心を貫くことだ。また、ネット上に蔓延る声の大きい人々を過信しないことだ。彼らは彼ら自身の処世術として、自分をよく見せるために何かを表現しているだけであって、そんなものに振り回されるよりも、自らの見聞で物事を分析、判断する個人の想像力と情報処理能力が、既存メディアへの依存から抜け出せるとともに、ネット上で日々繰り返されている私刑行為の抑止力にもなり得るのではないか。「同調圧力」に代表される不寛容な社会になってしまったのは、既存メディアのコンテンツに携わる人々が予定調和の範囲内で価値観の多様化を論じ、それに強く反発するネットが攻撃性を強める悪循環が原因だ。

 既存メディアまたはネットの依存性が強くなっているのは、自ら何も想像力を働かせていないわけで、そういう人々が声高に正義感を気取り、社会に対する不満などを口にするが、彼らのそれはより声の大きい人々の焼き直しにすぎず、既視感のあるものばかりだ。声の大きい人々が絶対に正しいとはかぎらない。むしろ疑ってかかるべきだ、という用心深さを持つことが既存メディアとの断絶の第一歩で、あとはネットと一定の距離を置いたうえで情報を集め、自らの見聞と照らし合わせながら日常生活に反映させてこそ、より民主的で価値観の多様化を認め合う社会に発展していくのではないか。「権力の監視」を標榜しながらも、実は保守的で全体主義的な既存メディアはすでにその使命を終えているし、ネットはまだ力不足だ。

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