私たちの中心は空虚なのか
原美術館で展示中の「森村泰昌:エゴオブスクラ東京2020―さまよえるニッポンの私」を見た。
展示の衝撃で、森村泰昌さんのことを変装好きな真似っこおじさんだと思っていた自分を反省しました。ごめんなさい。
美術手帖の記事によると
森村は、名画や映画の登場人物、歴史上の人物に自らが扮するセルフ・ポートレイト作品で知られるアーティスト。1985年に《肖像(ゴッホ)》でデビューして以来、一貫して「私とは何か」という問いに取り組んできた。
今回の展示は、ロラン・バルトに指摘された「中心が空虚な構造」という考えと、「真理や価値や思想は自由に着替えることができる」という森村さんの考えをもとに構成されています。
この展示を見て、先日村上春樹の作品をよく読んでいるモンゴル人の人に「村上の作品を読むと、日本人はいつも人生の意味を考えてるのか、疑問に思う」と言われたことを思い出した。確かに、私たちはそういうことを考えちゃう傾向にある人が多いのかもしれない。
そう思うと、日本の中心だけが空虚なんではなくて、私たち個人の中心も割と空虚なのかもしれない。なので、それを満たそうとして、意味を見出そうとしてしまうのでないか、という気がした。
でも、空虚なところには真理は見出せないのかもしれない。いずれにせよ、自分だと自分で思っている存在が、本当に自分だとどうして証明できるのか、という疑問がつきまとう。
だけれども、「これが絶対の真理だ」という強迫観念を持っていない分、なんとなく色々な考え方を受け入れるフレキシブルさがあるようにも思う。なので、中心が空虚であったとしても、あながち悪いことでもないのかもしれない。
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