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苦悩

人生は、いろんなことがあります。

と、月並みな言葉で始まった、いつもの長いひとりごと。

満月だった先日の中秋の名月を見ながら、故郷の海の波間にたゆたう板の上で思ったことを、つらつらと書いてみました。

藤原道長は「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」(この世は私のためにある。この満月のように欠けている部分がないとおもえるほど、私は満ち足りている)と、高らかにうたいました。

現代人とは脳の使い方がまるで違うであろう天下人は、苦悩や困難をどう捉えたのか、彼も見たに違いない秋の月の下で尋ねてみたいものです。

多かれ少なかれ、大なり小なり、苦悩や困難な状況はあります。全ての人に当てはまるのではないでしょうか。

またそれらは、時代背景や人間関係、生まれ育ち、身体的条件など、あらゆるものが絡み合って生まれる、一人ひとり唯一のものでしょう。ゆえに誰からも本当の意味では理解されない辛さがあります。当たり前ですが、同じ人間はいないからです。

そうであるならば、苦悩や困難な状況は、自分の外側のできごとが勝手に引き起こしているようで、その人の存在や内面とも繋がっている個性とも考えられるのではないでしょうか。だからこそ、人それぞれなのです。みんな持っている唯一無二の特別なもの。それが個性だと思います。飛躍しているというご指摘も聞こえてきそうですが、私はそんなふうに捉えています。

苦悩や困難が個性だなんて、渦中の本人にとっては、たまったものじゃありません。ない方がいいに決まっていることでしょう。けれど、残念ながら、それは私たちのコントロール下にない。

本人にとっては、全て投げ出してしまいたくなるほど大変なことです。いや、投げ出せもしないからこそ、終わりを選べないからこそ、苦悩や困難と呼ぶのでしょう。

私自身もそうです。気楽にうまくやっているように見えるのだろう、と周りの方々の反応を見ていると感じます。しかし、それはそういったものが一切ないのではなく、何があっても軽やかに生きると決めているからです。苦悩や困難があるかないか、ではなく、人生に対する態度を自分で決めているというだけのこと。それだけは唯一、私のできることだからです。

とはいえ、まだまだ私はこの点を極めきれていないなと思うことが多いです。恵まれてもいます。この先何があってもそうあれるのか、自分自身に挑んでいきたいと思います。

アランは自著、幸福論でこのことについて端的に述べています。悲観主義は気分に属し、楽観主義は意思に属する、と。

また、ロシアの文豪ドフトエフスキーも、私が恐れるのはただひとつ、わたしが私の苦悩に値しない人間になることだと、書き残しています。

苦悩や困難をおそれていても、それは避けられない、無くならない。むしろ、それらは私だからこそ起こっている私の一部である。苦悩や困難そのものをおそれるのではなく、それらによって自分の本当に大切なものを見失うこと、捨ててしまうことをおそれるという意味だと、私はいまのところ理解しています。

これは苦しい辛い環境から逃げてはいけないということではありません。自分に一切負けてはいけないということでもありません。

その状況と自分と世界とを直視して咀嚼して、受け入れる。または受け流すということです。

その人だから起こっている苦悩や困難だという言い方は、自業自得ときこえることもあるかもしれませんが、無論そのような意味ではありません。

その人は、それまでのすべてのことが絡み合ってそこにいます。その人のせいでもその人の力でもない。それでもそこにいます。ただ、います。

月並みな言葉で始まり、月並みな言葉で終わりますが、友人が苦悩していたり、困難な状況にいたりしたとき、何ができるかわかりませんが、できる範囲のことができる人でありたいなと思います。そしてそのときのために、自分のできる範囲を広く、そして深くしていきたいなと思います。

そんなことを、一つ屋根の下、故郷に集まってくれた友人たちと過ごす時間のなかで、思いがけず一人になったひとときに思いました。

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