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実力と才能

「苗場君ってさ、明日死ぬって言われたらどうする?」
「変わりませんよ」
「変わらないって、どうすんの?」 
「ぼくにできるのは、ローキックと左フックしかないですから」
「それって、練習の話でしょ? というかさ、明日死ぬのに、そんなことするわけ」
「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」

これは小説『終末のフール』(集英社文庫)の一場面。

小説の主人公が雑誌で見かけた、苗場というキックボクサーのインタビューだ。

小説の舞台は、8年後に地球の滅亡が確定した世界。いちどはパニックに陥った世界も5年が経過し、小康状態に。3年後の地球滅亡にむけて、人々は残された時間を過ごしている。

ある日、主人公は地球の滅亡を知るまで通っていたジムの前を通りかかる。するとそこには、ローキックを繰り出す苗場と、それをミットでうける会長の姿があった。それを見たときに主人公が思い出したのが、地球滅亡が発覚する前に発売された冒頭の雑誌のインタビューだった。

滅亡にむかう地球で、それとは無関係に生きているかのような二人。会長に話を聞くと、苗場は滅亡が決まったあともずっと、なんら変わることなく毎日の練習を続けているという。
僕は小さい頃、バスケに夢中だった。周りの雑音も誘惑も少なかった。気づけば、世代では第一線の選手になった。実力的にはチームやリーグを選ばなければプロになれた。誘いもあった。しかし、結果的には別の道を選んだ。

振り返って格好がつくように説明しようと思えば、なんとでも言える。震災による意識変容。他領域への興味関心。プロリーグ新設の真っ只中で収入の見通しが曖昧だったこと。
どれも嘘ではない。しかし本質は、才能がなかっただけという一言で片付くのだろう。どうやら、実力と才能は似て非なるものらしい。

僕には尊敬している後輩がいる。小中高と僕が全国の舞台で活躍していた頃、彼はベンチにすら入れず、二階席にいた。それでも大学まで何とかバスケを続け、地方の下部リーグで無名のまま卒業した。ただ、彼は何よりバスケが好きだった。

僕が引退して数年後のある日、SNSを眺めていると後輩が画面に現れた。プロのユニフォームに袖を通して。

棒のようだった身体は筋トレと食事で何度も上書きされていて、シュート力やハンドリングが向上し、ファンに愛されている姿がそこにはあった。成長がみられたのは、生まれ持った身体能力やセンスに左右されず、努力で上達させることが可能な部分ばかりだった。そこに賭けて、来る日もくるひも膨大な時間と熱量を注いで、本気で向き合ったことが分かる。
結局、これこそが才能なのだと思う。自分には、なかったもの。

競技人生において幾度となく思い知る身体能力の限界や、努力では埋まらないセンスの差。そして、他人の評価や身内の諭すような声。さらに、競技以外での人生の諸問題。それらにさらされながらも、明日も明後日も自分の信念に基づいてやるべきことをやる気持ち。その強さ。何人たりとも寄せつけぬ自分だけの聖域を内側にもつことだ。それが才能の正体なんだろう。強いから続けられるのではなく、続けるから強いのだ。
『終末のフール』に出会った頃の僕は勘違いやろうで、自分の才能を露ほども疑ってはいなかった。一方で、バスケへの情熱は冷めていた。

そんな僕に、苗場の言葉は深々と突き刺さった。それから自身のアイデンティティであるバスケを捨てるまでの葛藤の最中、苗場は僕に問い続けた。

「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」

そのおかげで逃げずに自分の気持ちを真っ直ぐに見つめることができた。そうやって考え抜いて選んだ道で、僕は選手の時より自分らしくあれる生き方や仲間と出逢うことになる。今のライフスタイルには、僕だけの聖域がたしかにある。

「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」
この先も、自分に問い続けたい。

『終末のフール』を手に取った時期に読み漁った哲学書や古典の中には心に響いた愛読書が多数ある。

それでも、僕の人生の分岐点には決まって、苗場のローキックが会長のミットを打つ音がする。

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