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若い頃、意図せずして"過疎地の駅の駅員"になって学んだこと(1)

"とくに20代は思考の密度を上げる時期です。吸収し、自分の中で考察し、自分のものとして蓄える。その訓練を積まないと、顔が「バカっぽく」なります。性別を問わず、年齢を重ねるほど、思考の薄さは顕著に顔に出ます。みなさんにも思い当たる人はいないでしょうか?
全体感から仕事のインパクトを感じるために、できるだけ早く、「過疎地の駅の駅長」をめざしましょう。過疎地の駅の駅長は、自分ひとりで多くの業務をこなし、乗客の生命を預かり、判断も下さなければならない存在です。"

(経営共創基盤の共同創業者・塩野誠氏の言葉の引用https://newspicks.com/news/1945420/body/)

20代の終盤、当時勤務していた邦銀にてインドネシア駐在の発令を受けた。それも現地の子会社ではなく、現地で買収した直後の会社に出向することになった。買収先(正確には現地企業とのジョイントベンチャー)の会社への出向ということで、通常の邦銀における人事ローテーションのルートとはかなり異なる異動であり、またインドネシアに対して縁もゆかりもなかったので発令を受けた当初は非常に不安だった。

だが、今振り返ってみれば本当に多くのことが学べた貴重な体験であった。冒頭の経営共創基盤の塩野誠氏が言及されている過疎地の駅の「駅長」の身分ではなかったが、それでも過疎地の駅の「駅員」として、会社経営の全体感を掴みながら、海外拠点における経営について深く学ぶことができた出向であった。以下、駅員として何を学ぶことができたか、思い出せる限り以下に記載していきたい。

始めに;当時インドネシアの子会社に出向することになった背景

インドネシアに行く前、会社の人事に対してはインドネシアに行きたいと志望していたわけではないし、子会社に出向したいと言っていたわけでもなかった。ただ、高成長市場であるアジアで働いてみたいという考えは予てより人事に伝えていた。

そんな中、突然人事異動の内命が出て当時所属していた部の部長から「インドネシア子会社に1年間、出向することになった」と伝えられた。正直、第一印象は「どこそこ?」というものだった。当時、自分はインドネシアで地場企業を買収したことも知らなかった。当時は欧米企業による在日外資系企業のM&Aに関連した業務に携わっていたため、欧米かアジアで証券市場の発達している市場しか関心を寄せていなかった。そんなわからないことだらけの中、インドネシア子会社を管理している部署に挨拶に行くと、とても背が高くてスマートな後の上司が出迎えてくれた。あとから知ったのだが、その人は実際、見た目だけでなく仕事もスマートにこなす、スタンフォード大学のEMBAを取得して日本に戻ってきたばかりのスーパーエリートの方だった。

スーパーエリートの方である分、社員をモチベートするのも非常に上手かった。自分が「インドネシアのどこの会社に行くの?」とポカンとしているのに気づいたのか、今回の出向の意義を熱く説いてくれ、そしてモチベートしてくれた。
・なぜ会社がインドネシアの地場企業を買収したのか
・なぜそこに人を派遣しようとしているのか
・会社はこの買収した子会社を通じて何をしたいのか
ざっと上記のようなことを語ってもらった後では、自分はなんて素晴らしい海外出向のポストを与えてもらったんだろう、とワクワクして早く現地に赴任したくてたまらなくなっていた。

一方で会社の同期からインドネシア子会社に出向となったことを伝えると、多くの同期から「え?何かやったの?」「大丈夫だよ、すぐ戻って来れるよ」と、まるであたかも島流しにあったかのようなコメントが来たことは今でも鮮明に覚えている。そう、当時はまだ半沢直樹で左遷された上司がフィリピンに飛んだ、という描写があったように、自分のいたような会社では東南アジアに行く=ちょっと失敗しちゃった人が赴任する場所 というイメージを一般的に持たれていた。だが、そうした世間一般のイメージは関係なく、自分の会社が今から東南アジアで新規ビジネスを立ち上げようとしていること・そしてその第一陣営に選ばれたこと、にとにかく自分は興奮していた。

内命が決まった直後、当時ベストセラーとなっていた「経済大国インドネシア」を早速書店で買って読んだ。インドネシアはこれから人口ボーナスの恩恵を最も受ける国の一つであること、インドネシアの成長の動力源は国内個人消費であり、金融危機のような外的ショックは受けにくいこと、一人当たりGDPが3,000ドルを超え、これから層の厚い中間層の消費がますます盛んになっていくこと、が記されていた。早くその成長を目の当たりにしたいと思っていた。

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