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大衆の反逆を読んで

学生時代、恥ずかしながら今で言うところの「何者かになりたい・大衆堕ちしたくない」という若気の焦りを胸に、オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」をよく読んでいたが、久しぶりに読んでみたので内容をまとめてみたい。

著者オルテガの大衆に対する軽蔑、蔑みが一文一文から伝わってくる内容である。我々は、とりたてて何のとりえもない平均的な人々である大衆が権力を握ってしまっている時代に既に慣れてしまっているが、そういった事態はオルテガが本作品を書いた1930年に至るまで、過去の歴史において一度もなかった。

人間にはその時代の文明を維持していったり、発展したりすることに義務を感じる「貴族」と何の義務も感じず、権利ばかり主張する「大衆」の2タイプが存在するが、現代社会は後者に支配されている。そして、こうした依存型大衆社会がファシズムやシュルレアリズム文学・さらにはソビエト連邦を生み出した、というのがオルテガの主張である。

本書のうち、特に印象に残った文章を以下抜粋しておきたい。

・大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである。

・われわれがここで分析しているのは、ヨーロッパの歴史が、初めて、凡庸人そのものの決定に委ねられるに至ったという新しい社会的事実である。あるいは、能動体でいえば、かつては指導される立場にあった凡庸人が、世界を支配する決心をしたという事実である。

人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な欲求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のままに漂う浮標のような人々である

・今日われわれは、明日何が起こるか分からない時代に生きている。そして、そのことにわれわれはひそかな喜びを感じる。なぜならば、予測しえないということ、つねにあらゆる可能性に向かって開かれているということこそ、真正な生のあり方であり、生の真の頂点というか充実だからである。

・十九世紀のような頂上の時代の安心感は、一つの視覚的幻想であり、その結果は、自己の方向を宇宙のメカニズムにまかせ、自分自身は未来に無関心になってしまう結果を招くものである。進歩主義的自由主義もマルクスの社会主義も、ともに、自分たちが視覚的未来として望んでいるものが、天文学におけると同じような必然性によって、まちがいなく実現されることを前提としている。

・(この本が書かれた時代において)サンディカリズムとファシズムという表皮のもとに、ヨーロッパに初めて理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断固として強制しようとする人間のタイプがあらわれた。・・・彼らは意見を主張しようとするが、あらゆる意見の主張のための条件という前提を認めようとはしない。

・大衆人は、自分がその中に生まれ、そして現在使用している文明は、自然と同じように自然発生的なもので原生的なものであると信じており、そしてそのこと自体によって原始人になってしまっているのである。・・・文化の基本的価値など彼には興味がないのである。彼にはそうした価値に共同責任を負おうともしないし、その価値に奉仕する心構えもない。
・・・(大衆人は)国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである。

・大衆人は国家を見て、国家に感嘆する。そして国家が現にそこにあり、自分の生を保証してくれていることを知っている。しかし彼は、国家は人間の創造物であり、幾人かの人間によって発明され、昨日までは確かに人間にそなわっていたある種の徳性と前提条件によって維持されてきたものであり、明日には雲散霧消してしまうかもしれない、という自覚はもっていない。

・シュルレアリストは、他の人々が『ジャスミンとか白鳥とか半獣半人とか』書いたところに、書く必要もない一言を書きくわえ全文学史を彫刻したと信じ込んでいる。しかし彼がやったことといえば、今までゴミ捨て場にうち捨てられていたもう一つの修辞学をひっぱりだしてきた以外のなにものでもないのは明らかである。

・人間の生は、その本質上、何かに賭けられていなければならない。

・生きるということは、一方においては、各人が自分で自分のためになすことである。しかし他方においては、そのわたしの生、わたしだけにとって重要な生が、もしわたしがそれを何かに捧げているのでなければ、緊張も『形』も失い弛緩してしまうのである。近年、献身すべき対象をもたぬために、無数の生が自らの迷宮のなかに迷い込み消えていくという恐るべき光景を目撃してきた。

・創造的な生は、厳格な節制と、高い品格と、尊厳の意識を鼓舞する絶えざる刺激が必要なのである。

・今日、『ヨーロッパ人』にとってヨーロッパが一つの国民国家的概念たりうる時期が到来している。しかも今日そう確信することは、十一世紀にスペインやフランスの統一を予言するよりもはるかに現実的なのである。西欧の国民国家は、自己の真の本質に忠実であればあるほど、ますますまっしぐらに巨大なる大陸国民国家に発展してゆくことであろう。

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