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ボランティアに対する考え方

自分の家族が食べていくのに必死なくせに、地域のボランティア活動も色々やっているので、僕なりのその意義や考え方について書いてみよう。

ボランティアとは

最近は、よく言われていることだから、繰り返す必要が無いかもしれないけど念のため。
日本では「無償奉仕」の意味だと勘違いされている節があるけど、大事なのは「有志」であるということ。言い換えると、タダ働きではなく、自発的にやるという部分が肝要。義勇軍の話もよく引用される。

これは基本的かつけっこう大事なところ。
単発ボランティアだと、そのあたりが曖昧でも一時的な高揚感で達成出来てしまうんだけど、何年も続くようになると、嫌なことも辛いことも出てくる。「なんでこんなことまでやらなきゃいけないんだ?」って立ち止まってしまう場面に出くわす。その時に、自分なりにボランティアの定義が出来ていないと、続けることが出来なくなってしまう。

保護司

「へ?ホゴシ?」という反応が多いので、そもそも保護司ってなんなのか、書いておこう。

犯罪を犯してしまった人が社会復帰をするときの、手助けをするのが役目だ。具体的に何をするかというと、実刑になった人なら刑務所や少年院からの仮釈放中、出所後の保護観察の現場担当をする。または、鑑別所や薬物の矯正施設をでて保護観察というパターンもある。そういう人たちと接触して近況を見守るのが保護観察の主な仕事。

また、仮釈放時に帰る場所の環境を調整するという仕事もある。犯罪を犯した家族が帰ってきても引き受けられないということも多く、これもなかなかやっかいなケースがある。

非常勤の国家公務員(実質的に民間のボランティア)という説明はなんじゃそりゃって感じだけど、要するに保護観察の現場雑務担当というなかなか精神的にもヘビーなボランティアである。「俺たちは保護観察所の下請けじゃねーぞ!」なんて話題は、地元の保護司会ではよく出る会話。

民生委員・児童委員

こちらは、厚生労働大臣の委嘱になる。身分は、非常勤の地方公務員。

地域の、高齢者や障がい者、その他さまざまな事情を抱えている地域の世帯状況を把握して支援する活動をしている。

実は、民生委員のほうは先月なりたてほやほや。引き継ぎや会議があったくらいで、実質これから始まるというタイミングである。

どうやってなる?

よく聞かれるのが、どうやったらなれるの?という質問だ。保護司も民生委員も、「地域の推薦」というとても曖昧な方法で、自分から手を挙げてもなることはできない。

僕も、当然地域で推薦されたわけだけど、保護司は近所のお寺の住職さんに推薦されて。民生委員は、通りすがりのいつも挨拶しているおじさんが自治会の顧問で、次期はぜひお願いしたいと声がかかったのだ。

無縁社会に息を潜める地縁

「無縁社会」ということが言われて久しい。都会のマンションなら隣の住人がどんな人か知らないというのも、珍しいことではないだろう。

幸いにもうちの近所は良い意味で田舎っぽさが残っていて、隣近所の交流はあるし、井戸端会議もよく見かける。

特別職のボランティアは、地域の推薦といっても、この辺のように地域の交流がないところは、推薦することが難しいというのも安易に想像が付く。

案の定、この手の役職は慢性的に人手不足になっている。

このような時代でも、縁があって声がかかった。しかも、地域の年長者からお願いされたのだから、四の五の言わずに「ハイ!」と返事をして快く引き受けるべきだと思っている。

自分にとってのボランティアとは

タイム・イズ・マネーと昔から言うが、僕はタイム・イズ・ライフだと思って常日頃から生きてる。寿命はどこかの時点で終わりが決まっているとすれば、何をやっていようが、かかった時間分だけ余命を費やしたということになる。これは冷静に考えたら恐怖である。

まだまだ長生きするという前提で聞くとピンとこないかもしれないが、今日が人生最後の一日だということを知ってしまったら、何をしてすごすだろうか。少なくとも、くだらないことで腹を立てているような暇はない。あと半日で肉体を捨てていく自分のために、あれもこれも欲張って物やお金をかき集めても意味が無い。

だとしたら、自分が生きた証は、明日も生きながらえるかもしれない人に、時間という自分の命を使ってもらうことくらいしか思いつかない。

ボランティアといえば、一般的には他人に対して何か出来ることを指すが、相手は家族でもいい。ただ、想いの先を自分の家族だけ限定と考えてしまうと、やはり、自分のためだけに生きたときと同じ虚しさが残る。

自分の命を誰かのために。職業を通じて実現できる人はそれもいい。ホームラン王が何億円も年俸を取れるのは、それだけたくさんの人を笑顔にできる価値があるからだ。残念ながら僕は本業では、プロ野球選手ほどたくさんの人に幸せを届けることはできない。

聖路加病院の日野原先生の著書で、ギブ&テイクというくらいだからギブ(与える)ほうが先にするべきだということ書かれていた。その通りだと思うけど、ボランティアに関してはテイクを期待するものではない。
それでも、生きているうちにギブの実践ということには賛成したい。

どちらかというと、ボランティアをという他人のために命を削る行為は、ジャータカ物語のうさぎを思い出すな。自分の肉を食べさせるために焚き火へ自ら飛び込むんだ。

そう、ボランティアとは、命の布施である。



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