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ただ魚を食べた人たちのこと

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不知火海で暮らし、魚を食べ、水俣病になった人たち。漁師さんや、行商さんや、農家さんや、木こりさんや、いろんなひとたちの言葉。被害や暮らし、家族、仕事のこと、聞いた話をそのままに。…
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2019年6月の記事一覧

私たちの命の綱ですたいね、海は

2014年1月14日。今日は海岸部で育った方に話を聞いた。 小学校時代、ご飯を食べたあとに友達と遊びながらの一仕事。 昼休みになると毎日のように、目の前に広がる海に貝をとりに行き、空っぽの弁当箱に貝を沢山入れて持ち帰る。当時はみんなそうやって勉強の合間に晩のおかずをとっていた。 学校から帰ると漁を終えて帰ってくるおじさんたちを待ち構え、売り物にならない魚をショケ(竹カゴ)に入れてもらった。 そんな当たり前の風景を回想し、語る。 「母ちゃんが魚やらビナ(貝)やらが好きや

風がある日の船の上は

朝から船の上で、なんとはなしに始まった話。風がある日の船の上は、今日みたいな暑い日でも外よりも家の中よりも、涼しいのよと、船にふたりきりになった時、女性が教えてくれる。 漁師をしている女性の顔や首は漁をしない私より白い。ツバが広く首を覆う帽子に効果があるのだろう。黒く焼けた無骨な手をさすりながら話す。水俣病によって引き起こされる頭痛、身体の痛みのこと。昔父ちゃんが水俣病の運動に一生懸命で家に帰ってこんかった話。家事と漁とで子どものことまでは見やきらんやった。水俣病に父ちゃんば

魚、魚、魚。食い、飲み、歌い、踊り。

今日は事務局をしている患者団体の、第一回目の忘年会で、日のあるうちから酒を飲みました。花見会も忘年会も旅行も、対象者を変えて、年二回ずつ開催していて、その都度の準備は大変ですが、やってよかったと、毎回思います。本当に大変なのは、私より、もうひとりの事務局の木下くんですけどね。昨日の帰り際、同僚に「30歳も40歳も上の大勢の患者さんたちの前で、水俣病の現状を解説するなんて、そんなの、本当に緊張する」と本音をぽろり。「自分が引き受けると決めたんでしょう」と活を入れられました。きょ

何を聞きたいかではなく、なんで聞きたいか、なんだ。

5月9日10日と、患者さんたち30人と島原を旅しました。対岸の島から船で渡ってきた方たちを「丸島港」で出迎えて、そのあとバスで水俣や芦北の方たちを迎えて。 道中のガイドさんは参加の患者さんの同級生の娘さん。イノシシの話に始まり、「私は昨日は代掻きをしてきました」とか、「この地域の田植えは何月何日頃にあって早いんですよ」とか、「稲刈りをした後はこの辺りには黄色い花が満開になってきれいです」とか、昔の人が自然の中でどう生きてきたかなど、彼女の興味を聞く私はとても楽しくなりました。

歌ば歌えば患者はいきいきしてくるな。歌はよかな

荒波の中、対岸の島へ行きました。前後左右上下に揺れる船で15キロ。大勢、待ってくれていました。島は人との距離が近い。一軒一軒回るときとは違って、大勢が集まるときにはその関係や密度が一層濃くなるように感じます。正直、カオスです。島で私は、患者さんたちから「あねさん」と呼ばれます。20代の半ばの頃、初めてこの島で高齢の女性からそう言われた時は驚きましたが、若い女性を呼ぶときに、使うそうです。 あっちからこっちからポンポンと飛んでくる、病気のこと、魚のこと、ひわいなこと、気候のこ

なのにね、棄却通知には

今日ね、決定の通知が届いたっですよ。棄却だそうです。水俣病じゃない理由は地域に被認定患者が少ないこと。家族に漁業従事者がいないこと。家族に認定患者がいないこと。 Aさんは、県からの文章を読み上げました。 でもね、親父は船を持っていて、私は一緒に漁に出ました。漁師として登録して働いた人だけじゃなくて、そこに住んでる人はみんな魚を食ったでしょう。それにね、私の家族には認定患者が「いない」んじゃあなくて、水俣病になりたくなくて、認定申請しなかったんだよ。県の文章はね、全体に上から目

首にならないように元気を装って

水俣病の認定申請をしていたAさんが、棄却されました。Aさんとの出会いは4年前。東京で初めて集団検診を行ったときのこと。わざわざ愛知県から検診を受けにいらしたのがAさんでした。診察が終わった後、畳にくっつけるようにして頭を下げ、「私の同級生たちは、中学卒業後に集団就職で愛知や岐阜、三重に出て働いてきました。みんな苦しんでいます。どうか緒方先生、名古屋に来て下さい」と頼み込む姿に胸を打たれました。 Aさんは、不知火海の海っぷちの生まれです。父と兄は生粋の漁師であり、魚の行商人で

京都に移住した水俣病患者のはなし

患者のAさんは2年前、相思社を訪れました。アポなしでしたが、二時間の間、話を聞かせてもらいました。帰られたあとも、「京都にきたら、絶対に寄ってな」と言ってくれて、その口調には優しさが滲んでいて、12月21-24日の関西出張にあわせて、Aさんを訪れることにしました。 待ち合わせは最寄駅。再会し、握り合った手を上下に振って喜びました。Aさんは、近くのファミリーレストランに案内してくれる道中、ポールやバス停やドアや、いろんなものに、ぶつかる、ぶつかる。普段は自転車に乗るAさん。「こ

取り下げ書、送りますよ(熊本県とのやり取り①)

水俣病患者のAさんから連絡がありました。3年前、「私を水俣病と認めて」と熊本県に被害を訴え、認定申請をした人です。Aさんの水俣病症状は一年前から、重くなりました。それに伴って呼吸が苦しくなり、どこへ行くにも酸素が必要になり、障害者手帳を取るお手伝いをしたのがこの春のことでした。 行動範囲が狭まったAさんの症状は更に悪化していきました。「あんなに魚を食べたんだもん、こんなに体がきついんだもん。水俣病に間違いない。認められるまではと思って頑張ってきたけれど、人に会うことも外に出る

おら漁師が好きやったもね

90代になる男性の家に行った今朝。 おら漁師が好きやったもね。そこにちいちゃか(小さい)木の生えとろう?その木から向こう、こん家の目の前はもう海やったっばい。そこに舟がつないであったっばい。家から出て、1メートル。移動はぜーんぶ舟か、里道たい。 おら漁師が好きやったもね。家の前でよう地引網のありよったが、網の中に入っとる魚ば見ればたい、もう、なんとも言われん。学校から帰ったらカバンはブイやって、海に出てみんなの手伝いばした。9歳のときに親父が果ててな。その前もあとも、家のおか

私が、私が、魚を、売った。食べさせた

昨日から、頭を離れない親子の話。昨年のおわり、相思社に来て、「話を聞いてくれるだけでいい」といい、語って帰った親子。1950-60年代、山間部に住みながら、水銀の汚染の濃厚だった不知火海で仕入れた魚を30キロの山手まで持ってゆき行商をしていた親。1950年代に生まれた障害をもった我が子。親が売った魚を食べつづけた近所の別の母親も、障害をもった子を産んだ。話の最後に「私たちが、売った魚が、誰かを苦しめているかと思うと…」といった子どもさんの言葉。その親子が、相良村の緒方俊一郎先

今でこそ魚を犯人扱いしていますがね

昨日は長年水俣病に関わる緒方俊一郎医師と共に車を走らせ、県外の患者さんのところまで往復9時間の旅をしました。 到着するとご高齢の、上品なご夫婦が出迎え「わざわざ申し訳ありません」と恐縮され、こちらも恐縮。長年水俣病の症状を持ちながら暮らし、数年前にようやく認定申請しましたが、しかし「家族に認定患者がいない・漁業従事者がいない。症状は水俣病以外の病気が原因」を理由として県から棄却通知が届き、いま再申請をしようとしています。 診察を始める前に改めて、どういったところで育ち、どのよ