見出し画像

首にならないように元気を装って

水俣病の認定申請をしていたAさんが、棄却されました。Aさんとの出会いは4年前。東京で初めて集団検診を行ったときのこと。わざわざ愛知県から検診を受けにいらしたのがAさんでした。診察が終わった後、畳にくっつけるようにして頭を下げ、「私の同級生たちは、中学卒業後に集団就職で愛知や岐阜、三重に出て働いてきました。みんな苦しんでいます。どうか緒方先生、名古屋に来て下さい」と頼み込む姿に胸を打たれました。

Aさんは、不知火海の海っぷちの生まれです。父と兄は生粋の漁師であり、魚の行商人でした。親の手伝いをして、朝昼晩、魚魚魚の生活でした。
中学卒業後、同級生たちと愛知に集団就職をしました。割れるような頭の痛み。セミが10匹も20匹もいるようなジージーミーンミーンという耳鳴りがする。手足のしびれ。あしゆびの先半分の痛み。立ちくらみにふらつき、疲れやすく、人と同じように働けない。私は働くのは好きなんです。悔しくて、悔しくてというAさん。夜半過ぎ、足がつるのは毎日のこと。隣町の出身の男性と結婚しましたが、流産死産を経験しました。やはり海っぷちの生まれの夫も、夏も冬も氷のうを頭にあてていないと眠れないような頭痛があります。Aさんとお会いした頃は、Aさん自身のめまいがひどく入院をしたあとでした。

あれから4年。9月の東海検診でお会いしたとき、夫のBさんが「インターネット記事では、【熊本県は一年に三百人も棄却する】って書いてあるね。去年は一人も認定されなかった。いま熊本県から棄却されるのを待つ日々は、死刑宣告を待ってるみたいだよ」と穏やかにいった言葉が胸に刺さっています。
患者が切り捨てられることになると思うと、水俣病が終わらされる、そのさなかを私は生きているんだと思うと、無念さと無力さで胸がいっぱいになります。

Aさんが受け取った棄却通知です。彼女が電話の向こうで口述したものを筆記しました。Aさんの口から、寒々しい言葉が溢れました。

+++

あなたについて、第247回熊本県公害健康被害認定審査会において、疫学調査及び検診の結果などに基づいて、有機水銀に対する暴露及び症候並びに両者の間の個別的な因果関係の有無等の観点から総合的に検討を行った結果、有機水銀への暴露に起因して公害健康被害の補償等に関する法律が定める水俣病に罹患しているとは認められませんでした。
有機水銀による水俣湾周辺地域の汚染が認められた時期におけるあなたの体内水銀濃度を示す客観的な資料を確認することができませんでした。あなたが住居している地域の有機水銀に対する相当程度の暴露は否定できませんでした。
一方、検査所見について、上腕、両肩以下の痛覚低下がありましたが、暴露の程度や確からしさから、あなたが呈している症状について有機水銀に対する暴露と因果関係が認められませんでした。

+++

この4年、Aさんの体の苦しみや、「水俣病」の認定申請をしたことで、Aさんきょうだいに生まれた確執を聞いてきました。そして今日、「わたし、棄却されました」の電話。電話を切ってから泣けてきました。

体を侵され放置された15歳の子どもたちは、遠い東海の地で暮らし、たくさんの症状を抱えながら六十年、今日も治療費のために、「首にならないように元気を装って」、働いています。
長い間の苦しみは、誰に知られることなく、終わっていくのだろうかと思います。私たち国民は、彼らの姿を見なくて済むんだということや、愚かなわたしたちのことや、そして、わたし自身は何の役に立てるんだろうかということを。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?