電波ジャンパー

小説『僕は電波少年のADだった』〜第10話 紅白への道

 時は少し戻って、大晦日特番の話を聞いたのは12月頭。いろんな番組のコーナーを持ち寄って7時間半の生放送を開局40周年特番として放送するということで、電波少年では『梅村邦広・借金美女救済年末ジャンボ宝くじ企画』と『梅本明子・NHK紅白歌合戦に出たい』の2つの企画を展開することになっていた。
 その番組名が『スーパー電波バザール〜年越しジャンボ同窓会』。今考えると酷いタイトルだ。タイトルの発案者について聞いたことはないが、今考えると火を見るより明らか。後に『ラジかる!!』『あの人は今?』などを企画・演出・プロデュースする鬼才甘崎登だったはず。手がける番組すべてに自ら出演するという昭和テレビのヒッチコック。20年後、この鬼才が演出する『栄光のスターを訪ねて三千哩』という番組をお手伝いすることになるのだけど、20年を経て作ったどっちの番組も出てきたスターが同じという、全てお友達キャスティングで同じような番組をひたすら作り続けるという芸風の全く変わらない個性的な演出家であった。彼にこのタイトルのことを聞けば、この一見酷いと思えるタイトルにも視聴率が取れるノウハウが山のように詰まっているのだと言うに違いない。

 それはさておき『梅本明子・紅白歌合戦に出たい』の担当ディレクターは飯合D、ADは僕。
 この企画はもう電波少年が始まった頃からの野望として、長く長く続いてきたもの。作曲はフランスの大作曲家アーラ・コーリャ。アポなしで依頼し、渡仏直接交渉により担当レコード会社もビックリという奇跡の実現。作詞は、ドル箱企画『ジョニー夫妻を仲直りさせたい』で電波少年にレギュラー出演中(!)大河ドラマ・NHK朝の連続テレビ小説の脚本を書き、視聴率50%を越える化け物ドラマを生み出した国民的脚本家ジョニー五木。これもまたアポなしで、ジョニー氏とその妻の間を取り持つという企画の中で、本人のご好意で作詞して頂いたもの。アーラ・コーリャとジョニー五木の日仏最強ダッグで、なんと本当にスタッフも涙無くしては聞けないという名曲『ネコなんだもん』が完成した。これでNHKが気に入らないわけがないという鉄板の作品。『みんなのうた』にぴったりの童謡風歌謡曲。
 その上、なんと言っても梅本明子の歌唱力はみんなの度肝を抜くほど抜群で、元々徳島の民謡天才少女。全国ネット朝の情報番組の開祖『ズームイン朝』で、「天才少女東京へ」企画として生放送で紹介され、『スター誕生』でデビューを果たしたという折り紙が小野小町の十二単になるんじゃないかというくらいのお墨付きアイドル。成功は約束されてるはずだった。
 ところが時代の潮目が彼女の目前で鳴門の渦潮が巻き直すように変わり、視聴者はアイドルを求めず、まさかの歌番組激減。時代のアオリを受け、スタ誕デビューにも関わらず、その後まさかの鳴かず飛ばず。初めての生放送で先輩に、「これを言えばスターになれる」とそそのかされ、一発勝負とばかりに放送禁止用語を絶叫。それが原因で、しばらくメディアから干さる。まさにキジも鳴かずば撃たれまい。を、地でゆく失敗物語。
 しかしテレビ界ってのは不思議な所で、何もしない輩より、失敗する無謀者に優しいらしく、仕事もギャラもない梅本は、様々な先輩たちに面倒を見てもらう毎日の中で、歌とともに本人も気づいていなかった『大物にいつのまにか好かれてしまう』才能の芽を育んだ。すると、黒川の上司である伊藤光編成部長(当時)がイベント営業で必死にトークする梅本に何かを感じ、「あの娘と太田プロに頼まれてる梅村二人で3か月限定の番組やれ」と黒川にあてがい扶持。こうしてスタートした電波少年において梅本は、『天は二物を与え』た彼女の目の前に、二本目の藁が流れてきて『溺れるものは藁をも掴』んだ。アポなし取材が彼女の大物にいつのまにか好かれてしまう才能にジャストフィットしたのだ。失礼な取材にもかかわらず、相手の懐に潜り込んで、仲良くなってしまい、不可能と思われたアポなし依頼もなぜか実現させてしまう。アッチに行けば「そうですね」。コッチに行けば「そりゃそうです」。可愛い顔に似合わないガハハ笑いは視聴者の心をワシづかみ。こうして梅本はバラエティ・アイドルという新たなジャンルを切り開き、2つ目の才能を見事に開花させた。
 そんな梅本のために『NHK紅白歌合戦に出たい』という企画が展開するのも自明の理といったところ。これまで機会があれば何度でも、渋谷のNHKに通って来た。この年は紅白出場のためにTBSにレコード大賞辞退を申し出るロケまでやった。その全ては門前払いだったけれど、笑いは取れた。
 笑いとともに、梅本の真摯な姿に心を動かされた視聴者は「梅本さん、紅白に少しでも出られれば良いのにねえ」という気持ちに少しずつ傾く。しかし権威あるNHK紅白歌合戦は、そう簡単にお情け出演を認めるわけにはいかない。今と違って当時の紅白は燦然と輝く国民的番組の雄であったからだ。
 権威あるがゆえ例外が認められない構図あるところに、電波少年はめっぽう強かった。時に黒川の権威の痛いところを逆なでする企画は、体制をより一層頑なにさせた。すると、ますます電波少年は自由に展開しまくった。政治に経済に社会的な問題に、自由に切り込んでいた。
 そんな中NHKは、どんな企画で切り込んでも反発するわけでなく、迎合するわけでなく、真っ当な反応で大きな懐に飲み込んでいる感じがあった。NHKの中で電波少年のことを話すことはあるんだろうか?NHKは電波少年をどう捉えているんだろうか?紅白歌合戦は電波少年をどう感じているんだろうか?その答えは一切出たことがなかった。あの頃は、民放スタッフがNHKの番組づくりに関わることは一切なかったし、時の首相がお笑いの舞台に出るなど権威が弱き者にすり寄ってもくれなかった。それが当たり前の時代だった。
 後に作家の熊本さんが電波少年のことを
「電波少年とは、見たいものはどこまで近づいて見られるか?見られないものは、どこまで下がれば見られるのか?そういう無邪気な子供のフリをした大人の番組なんです」と評していた。
 熊本さんの言わんとする事の10分の1も理解できず、お笑いの欠片も分かっていない僕だったが、権威の硬いところをくすぐる笑いは世界で一番好きだった。

 大晦日生放送特番での生中継『梅本明子の紅白歌合に出たい』企画の内容は即決。紅白放送当日、朝からNHK前に張り込み、出演をありとあらゆる人に直談判。スーパー電波バザールは18時放送開始なので、紅白歌合戦生放送ギリギリまで交渉はつづき、その様子を随時生中継でご報告。21時から始まる豪華歌手大集合の第2部の生放送が始まったらハイ残念でした。が、通常の番組。こと電波少年が関わった企画で、そこまでじゃ演出黒川が許すはずもなく、視聴者だって納得できない。紅白歌合戦放送中もあの手この手で出演交渉。紅白の舞台に上がれるのだったら、紙吹雪の撤収だってやります!の勢い。紅白歌合戦終了まで渋谷区神南のNHK前で交渉し続ける。という鬼企画。
 「一日中NHK前で張ってりゃ、絶対紅白の偉いスタッフも目の前を通るはずだよ。そこで大晦日の寒空の下、貧相な顔した梅本が『紅白に出してください』ってボード見せるんだよ。心が動くってもんだろ。人間なんだから」と、一番の人非人黒川が人の心を説く。
「絶対見逃すなよ」
「もちろんですよ」
 こういう時の飯合さんの返事はものすごく軽やか。
「じゃ、ロケと中継準備よろしく」と、いつの間にか書いた演出メモを僕に手渡す。飯合さんの中継プランを見て度肝を抜かれた。
 iPhoneひとつで簡単に生放送できる今と違って、当時の生中継は中継車という大層なデカい改造トラックを使い、そこから衛星に映像を飛ばして放送する衛星生中継か、デカい中華鍋みたいなパラボラアンテナをどこかの中継所に向けて、その中華鍋でマイクロ波で映像を飛ばすマイクロ中継のいずれかしかなかった。飯合演出メモによると、神南NHK前にロケバスと中継車を一日中配置。そこから生中継と書いてある。
 僕は勝手に、中継車は渋谷の何処か置きやすい所に置いて、そこから中継レポート。NHKへのアタックの様子をVTRで流せば良いと考えていた。ありがちな制作者の都合で演出を考えるパターン。電波少年を分かったふりして分かっていない典型的なパターン。そりゃ視聴者目線で言えばNHK前で中継です。この本を読んでいる方もそう思うでしょう。テレビとは視聴者目線を失わないことが一番難しくて、ADに慣れれば慣れるほど、技術が難しいとか、美術は発注が間に合わないとか、いろんな都合で物事を考えるようになってしまうんですよねえ。
 ともかくこの演出プラン、ロケバスは運転手がスタンバイしているから、いざとなれば移動させられるからまあ良いとして、中継車は映像送出の関係があって、一度置いたら動かすことは出来ない。
 という訳で、技術さんと一緒に神南に下見。
 「長餅、これは結構大変だねえ」
 今日の下見は普段電波少年のロケでは音声マンとして参加してくれる安岡さん。もじゃもじゃ頭で寡黙だが送出技術や撮影機材に詳しい。
 平日のNHK入り口で缶コーヒー飲みながらウロウロしている姿は、どう見てもカタギではない。どうみてもNHKホールで行われるコンサートのダフ屋の下見だ。この年はNHKホールは開館20週年を迎えており、紅白歌合戦も例年以上に気合の入った準備が行われていたはずだ。
「長餅、マイクロ波無理。やっぱ衛星捕まえるしかないわ」
「マジっすか」
「スタンバイ時間かかるなあ。だいたいこんな所に衛星中継車置けるのか?」
 まさに正鵠を得た質問ってやつ。というか、ここから衛星中継する番組の企画を立てて企画書を編成部に提出したら、多分「バカじゃないの?」で一蹴されるに違いない。
 電波少年はやることなすことそんな感じだから、スタッフは基本コンセプトが分かってくれる人としか仕事はできない。いや人間として少し壊れてるくらいの人でないと出来ない。だから企画内容を説明すると、「そんな事できるわけ無いだろ」で済ませてしまう技術さんや美術さんとは仕事ができなかった。現実、そんなことできる訳ないだろという人は多かった
 でも数名の技術さんや美術さんは「それはそれとして、どうやったら出来るか」を考えてくれた。安岡さんは<狂った企画だけど、現実については深く考えず、実現の方法を深く考えてくれる>貴重な技術スタッフのひとりだった。
「マイクロだとなあ、安定するし、遅延もないから何が起きても大丈夫な中継できるんだけど、いいんじゃない?衛星で」
渋谷はビルが多すぎてマイクロ中継は出来ない。となると衛星中継しかない。らしい。
「衛星中継だと何が大変なんですか?」
 僕は疑問だと思った事は何でも聞く。知ったかぶりして良いことなんて一つもない。
「衛星中継車って、車の天井にどでかいパラボラアンテナを積んでいて中継がバレバレなんだよ。NHKの人だってテレビマンなんだから、ここに車が来た段階で中継するのが一発でバレるね。しかも衛星を捕まえるのに30分位かかる。その間に何言われるか分からないし、怒られてる様子も中継できないから、怒られ損でしょ?」
 怒られる事が問題じゃなくて、それが放送されない事が問題という前提で話してくれるあたり、非常に理解のある方だ。
「撮影許可撮るしかないね。がんばれ長餅」
 テレビカメラでのアポなし取材には、そろそろ慣れていたけど、まさかの衛星中継車によるアポなし生中継。スケールでかすぎるよ。
 こういう時はバカになって正攻法が一番。
 翌日、〇〇警察署に「大晦日の渋谷の風景を生中継したいので中継車を置く許可をください」と、書類一式持って申請。
 5日後「道路使用許可、出来ましたので取りに来てください」との知らせ。大晦日の渋谷の風景を生中継する!嘘はツイてない。ココが大事。嘘はいけない。
 本物の撮影許可書が窓口で出てくると、飛び上がりたいくらい嬉しかったが、平然とした顔で受け取った。
 スタッフルームに帰ると、みんなに自慢。
 電波少年のスタッフは、路上撮影許可書なんか見たことないから、ADみんな「おーっ、これが撮影許可書か」と大盛り上がり。撮影許可という言葉だけでなんか偉くなった気がして笑ってしまう。
 路上撮影許可をとると、中継車が置けることになった場所から一番近い電信柱の電信柱番号を調べてNTTに臨時電話の設置をお願い。こちらは問題なく承諾。当日10時に開通の工事完了の段取り。
 中継の段取りはすべて整った。

 OA1週間前。(つまりはアポなしサンタロケ当日の昼)
 飯合さんは鶴さんに直接ついていたこともあるので演出手法は鶴さん系。いくらアポなしで、いつ何時どうなるか分からない中継でもタイムマシンに乗って未来を見てきたような構成表を作って、ADに手渡す。その時点で黒川の承認も済んでいるので迷いもない。ここは電波少年の楽な所。ディレクターがこうしたいと言うのに、プロデューサが「それは駄目」と言ってADがその間をピンポン玉のように行ったり来たりするのはヒットしない番組のお決まりパターン。「まったく上同士で話してくれよ」は、そういう番組のAD決まり文句。ありがたい事にそういう事は唯の一度もありませんでした。が!その構成表には、以前会議で聞いていた内容から空恐ろしい変更が書かれていた。
 当初は、紅白放送中も交渉を行い、出演が叶わなかった場合、テレビを見ながらひとり寂しくNHKの放送に合わせて『蛍の光』を歌うはずだったのに、今日渡された構成表では<本番衣装に着替えてNHK前で『ネコなんだもん』熱唱>という演出プランに変更されてる!しかも本番衣装というのは、全身銀のスパンコールのレオタードに、羽のついた銀の帽子をかぶった松竹歌劇団のラインダンスの衣装!しかも飯合演出メモによると、尻にも梅本の背丈ほどもある鶏の尾のような羽の飾り物が追加されている。
 急いで美術発注。
 実はこの時、アポなしサンタの準備も並行で作業中、この美術発注が間に合うのか、間に合わないのか気が気でなかった。年末の美術発注は当然締切が早い。24日のロケも31日のロケも締切は同じくらいだったりする。だから発注が立て込む美術さんは、年末基本的に機嫌が悪い。すると美術の中田さんに
「なんだよ、今年のアポさんしサンタはこんな衣装でやるの?」
「すみません、年末特番の追加発注なんです」
 ちょっと不機嫌になる中田さん。しまった、コッチの都合でごちゃごちゃに発注しちゃった。説明が足りなかったよ。美術さんはこういうだらしない発注をものすごく嫌がる。中田さんの前の担当だった高田さんだったら、その瞬間「貸さない」とへそを曲げられるところだ。
「スパンコールの衣装は結構高いからちゃんと扱ってね」
「もちろんですよ、大事に扱いますよ」
「だいたい、そういうのはステージ衣装なんだから、外で着るものじゃないのよ。外で着るとすぐこのキラキラが取れちゃうんだから」
こういう時は平身低頭でお願いするしかない。
「ホント黒川が常識ないんで、申し訳ないっす」
 もちろん美術発注でいつも悪者は黒川にしておく。これが一番通りやすい。中田さんも企画が狂っていることは重々承知の上作業してくれる。
「じゃ東京衣装に頼んでおくから、28日ピックアップね。」
「ありがとうございまーす」
 間に合った!

 年も押し迫った28日、衣装ピックアップ。
 でかい羽飾りとキラッキラのハイレグレオタード。
 こんなカッコして大晦日の渋谷にいたら逮捕されないかな?
 しかもこれ、ペラッペラで防寒の<ぼ>の時もない衣装。これ12月31日の夜、外で着るんだよな。こりゃ大変だわ。
 「これ電波少年の年末中継で、外で着るんですけど大丈夫ですかね?」
「そりゃ無理だろ。さむいぞーっ」と、衣装担当の小竹さんが無愛想な顔でベンチコートを投げてよこした。
「これも持ってけー」
「ありがとうございまーす」
ADにとって、ありがとうございますは魔法の言葉だ。
 通常、発注書に書いていない衣装は一枚たりとも出ないのが普通。そりゃそうだ。東京衣装さんは衣装を1着いくらで貸し出すことで商売しているわけだから。しかし、そこは人柄と要領。普段から「ホント駄目なADですみません」「いつも助かりまーす」の挨拶がこういう時に役に立つ。
 AD仕事の8割は美術技術の手配。今回の仕事はどっちもうまく行った。

 どんなディレクターの仕事も手は抜けないのだが、飯合さんの担当には一味違うプレッシャーが合った。音楽ビデオからお笑いまで何でも出来てしまう鶴さん、キャラクターと押しの強さで全てを成立させてしまう〆鯖さん、制御不能壊れた天才加東さんというディレクター陣の中で(ディレクターデビューしたばっかりの南さんは別)、最も若くして家族も抱えている飯合さんは「電波少年だけ出来るディレクターになっても金は稼げない」というポリシーの持ち主だった。
 だから僕が番組について早々に「電波だけやってるとバカになるぞ」と、言ってくれたのも飯合さんだった。
 尖った番組はその番組独自の手法があり、その手法はしばしば他の番組では役に立たない。この辺が悩ましいと言うか、煩わしいというか、テレビディレクターの難しい所。
 例えば、初めて入った『木曜スペシャル』という番組では、結構硬派なドキュメントも作ったりするから、先輩ディレクターに「『そして翌日』的な画をどう撮るか、どんな画にするかがディレクターのセンスが発揮されるところなんだよ」と言われたことがある。例えば雨上がりの葉っぱに乗ってる蛙とか、ベタな所でカレンダーのめくりとか、予定や日直の書かれた教室の黒板とか、ディレクターの数だけそのバリエーションは存在する。
 しかし電波少年では画面いっぱいのテロップで『翌日』と済ませてしまう。今のテレビでは結構よくみる演出だから抵抗がないかもしれないけど、当時はものすごく斬新な手法だった。ものすごく斬新といえば、そうも言えるが、あまりに電波少年的演出手法で、他の番組に行ってそれは通用しなかった。
 アポなしロケの準備、カメラが回っているかどうかチェックする方法、編集の構成、同ポジでバンバン切ってゆく編集。それら電波少年で得られるもの全てが、他の番組では役に立たない。この独特な悩みは番組に入って半年しか立たない僕でも感じていた。もっと『Show by ショーバイ』みたいなスタジオ番組について、アイソ(当時、言葉しか知らなかったスタジオ収録素材の種類。正式にはアイソレーション)回したり、沢山のタレントさんと知り合いになって一緒に企画考えたり、そういう事出来るようにならなくて大丈夫なんだろうかと、Gスタの前を通るとき考えた。まったく何も分かってないADほどそういう事に心を揺らされる。僕はそんな典型的な何も分かっていないADだった。
 飯合さんはディレクター陣の中で最もキャリアがなかった分、こうした電波少年ならでは演出と、保守本流の演出に対するセンシティブな部分が一際鋭かった。だから「電波少年だけやってるとバカになるぞ」は、彼なりの僕への優しいアドバイスだったのだ。その優しさがちっとも分かっていない僕は、電波少年的演出と電波少年的演出の否定の両方を考えながら仕事をしなければならない飯合さんの担当の時のプレッシャーが堪らなかった。

 
 こうして前代未聞NHK前紅白歌合戦出演交渉生中継放送当日を迎えた。
 正午、中継車が師走の神南に来た。NHKの人は、なんて思うのだろうか?一応公道だしな。何か大晦日の中継くらいにしか思わないか、まさか数時間後、ここから紅白歌合戦に出たいと生中継が行われるなんて、想像できないだろうな。一緒に下見をした安岡さんが撮影許可書をみて大笑いした。
 午後14時、予定通りNTTの工事も終わり、中継車とスタジオは固定電話で繋がれた。大福Dがコーディネイターとして起用され、GスタとGサブで働いている。黒川の中で世界征服宣言をやっている大福はスタジオ仕事、電波少年をやっている長持は出先みたいな塗り分けがあるらしく、スタジオ番組が出来ないというコンプレックスを抱えた僕は通常番組のスタジオ収録の経験がないからこそ、こういう時にスタジオ担当にして欲しいと思うのだが、そうは問屋がおろさない。電話の向こうからうっすら聞こえるスタジオの音がカッコよく思える。
「おっと、そっちは大福か」
「はいはい、長餅よろしく」
 ライバル心もコンプレックスもあるが、同期入社の仲間でもある大福と生放送のホットラインで話すのは、また特別な感慨がある。
「飯合さんは?」
「まだNHKの前には来てないね。ってかもうすぐ入る予定だけど。そっちはどう?」
「さすがに夕方からの生放送でこの時間だから、スタジオのリハーサルもまだ始まってないよ。甘崎さんはもうサブコンで原稿書いてるけど」
「あっ、今飯合さん入ったわ」
 飯合D現場入り。いつのもGジャンにソフトリーゼント。特番で気合が入っているからか、ここなしかソフトリーゼントのテカリ具合が激しい。
「おいっす。おっ白木ちゃん今日は長いけどよろしくね」
 今日の現場のカメラはスウイッシュトーキョーの白木カメラマン。飯合さんとは長い付き合いらしく、コンビネーションは抜群。僕らADにとっては怖い怖いカメラマン。すべての準備は整った。