赫奕たる夏風12 十章 夢の波濤
1
玄蕃頭さまは、ご存知でした。
夏さまが、上野でどのようにお過ごしか。
上野に帰るたびに夏さまの表情が重く暗くなっていく、そのずっと前から、そうなるであろうことを、玄蕃様はとうに予見しておられたのでございました。
2
「永井玄蕃頭様に申し上げます」
うららかな晩春の昼下がり。
岐雲園の縁側前で、初老の女人は裸足で土に額づいていました。
奥の間では、三、四歳頃の夏さまがすやすやとお昼寝をされておられた頃でしょうか。
彰さまは、それを優しくお見守りされておられたでしょうか。
女の名は成生(なりゅう)。
いつも、上野桜木の岩之丞邸から夏様について来られる婆やでした。
名が武家風なのは、もとは夏さまの母上・高様の乳母(めのと)であり、高様のご実家・宍戸松平家に代々仕える家門の出ゆえ。上流の奥に長く仕えてきただけに、声や立居振る舞いすべてに、品と落ち着きを感じさせる老女でした。
「これより申し上げますことは、ご子息岩之丞様および若奥方たか様ご両名には断じて覚えのなきこと。すべてこの成生ひとりの胸の裡にございますれば、いささかでもご勘気蒙られなされた場合には、なにとぞこの老婆ひとりへご処罰下さりますよう」
「許す。申せ」
かつて千代田のお城の一室で、あまたの御家人麾下へ指揮を執られていた永井玄蕃頭の威厳とは、斯様なものであったでしょうか。
「恐れながら申し上げます。夏姫さまの儀、どうか永井玄蕃頭さま、お方様彰様のご養女として、お手元でご養育いただくことは叶いませぬでしょうか」
「 なにゆえに」
表情を変えず、玄蕃様は問われました。
「ご嫡男壮吉さま、ご長女夏様、ご次男亨さま、永井家のお子様方のご聡明さはいずれも群を抜いて秀でておられます。若君方はゆくゆくは高い教育をお受けになられましょう、旦那様はそのおつもりで先日、壮吉さまと亨さまの学塾を新たにお決めになられました。
ですが、お子様のうちで、まこと誰よりも優れておられるのは、夏姫さまにございます」
「……」
「ほかのお子様方を貶めんとする意図にはございませぬ。しかしこの成生、夏さまほど天与の才に恵まれたお子様を見たことがございませぬ。学問だけではございませぬ、お答えもしっかりと、日々の礼節、立居振舞については、あのご年齢で驚くほど身についておられます。はばかりながら、夏姫様には王気のようなものがそなわってございます」
「……王気とな」
ひとりごちて、ひれ伏す老婆を見下ろされました。
老女はつづけました。
「しかしながら上野のお父上・岩之丞様は、おなごの学びには価値を持たぬお方。おなごは家内で学ぶべしという、それもまた武家のならいではございます。けれど、夏さまの母上・たか様では……」
地についた成生の指先に力が入るのを、玄蕃様は見ておられました。
「たか様はこの成生が乳を差し上げ、お育て申し上げました。上流の姫らしく、何ごとにも優雅でおっとり、かんばせも臈たけたる美しい姫君にご成長あそばされました。けれど、たか様はそれだけの女人でございます」
眠るちい姫を見守る彰さまが、微かにお顔を傾げられたようでした。
「幼きころから無邪気で愛らしい反面、ご自分というものがなく、何事も楽へ楽へと流されておしまいやすい。何より武家の女としてのご自覚なく、今もってお洒落と芝居の他にはご興味を示しませぬ。学問はおろか、たか様では<おんな大学>ですら夏様にお教えすることは難しいでしょう」
「言うの、おぬし」
「不敬は重々承知しておりまする」
「そこは問わぬが…」
顔を伏せたままの成生に、玄蕃様は言いました。
「宍戸藩校の成生派といえば漢学の名門、そなたも並ひと通り以上の嗜みはあるとみた。何も爺の養女にせずとも、そなたが夏を導けばよかろう。
先日、夏が春望を誦じておったのを聞いたが、あの平仄(ひょうそく)の整い方の美しさよ。あれはそなたが仕込んだのであろう?」
「我が家門をご存じであられたとは……」
「そなたほどの教養ある女が子どもたちを見てくれているのは、まことありがたきこと。このまま夏を導き、学問を授けてくれるなら是非もない」
「もったいなきお言葉いたみいりまする。なれど、この老婆にはもう時間がありませぬ。
乳房に癌ができております」
愛し子の額を撫ぜ、奥の間の彰様はゆっくりと、暗がりから庭先の成生へ、深い憐みの視線を移されたご様子でした。
「婆が死ねば、旦那さまはいずれ夏さまに上野の奥を任せられましょう、最初から奥方様には何かなど期待されてはおられませんから」
「岩之氶(あれ)もな、……真面目さは信頼できるが、融通の効かぬ昔気質じゃからな……」
春の終わり、夏の始まり。
お庭の桜は若葉色に、木陰の射我(シャガ)の薄紫が、さわさわと揺れておりましたでしょう。
「ひとつ聞くが」
よっこいしょと玄蕃様は縁側に腰掛けられ、膝に両腕をついて成生に問いかけられました。
「なぜにそこまでお夏に肩入れする?高殿を思うように育てられなかった悔いを、夏で取り返そうとしておるのか。わしには、そのようにも見えぬが」
「呆けた老婆の世迷言とお聞き捨て下さいませ。____夢でございます」
「……夢」
「玄蕃頭様はお若き頃、おのが人生に夢を思い描かれなかったでしょうか」
老女の問いかけに、玄蕃様はつと両眼を細められました。
「学びを活かし、己の力を試したいと、……おのが眼で世界を見、己が手で世界を掴みたいとは、思うたことはございませなんだか。それは、心湧きあがる青春の滾りではありませんでしたか」
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海上を走る、風。
(この艦だ、永井よ)
瑠璃色の波濤を切り裂き、海原を走る観光丸の舳先に立ち、はためく羽織の肩越しに振り返る若者の姿が、玄蕃様の瞼裏には浮かび上がっておられたでしょうか。
この艦が、俺たちを世界に連れて行ってくれるのだ。
二人で、世界を見に行こう。
ふたりで、夢を叶えに行こう。一緒に。
(----岩瀬)
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「女というものは、女に生まれた時から、人生に夢を見ることを禁じられまする。学びを深めることも、見聞を広めることもできず、ただ男に従い子を産み育て、家を守るためだけの、まるで男の装置として生きるしか許されぬ生とは、牛や馬のそれと何が変わりましょうや。
子を産みたくないのではございませぬ。夫のため子のために生きることが悲しいのでもありませぬ。ただそのひとつひとつを、女は己の意志で選びたいのです。己で考え、選び、切り拓いてはじめて己の人生を生きられる……ひとりの人と成れる。
夏さまがご成長される先を、私はお見届けすることはかないませぬ。けれど、志あるどなたかが夏様を導き、生きる力をお授けになられるのであれば、これからの新しき世において、夏様ならご自分の人生を生きられると、……この夢は叶うと、そう信じられるのでございます」
そこまでを一気に吐き出して、老女は再度平伏していました。
ずいぶんと長いこと、玄蕃様は目を閉じ、深く黙されておいででした。
「そなた、生まれは」
「文政元年寅年にございます」
「そうか、その歳まで能くつとめたな。上野の奥は今もそなたが取り仕切っておるのだな」
「面目もございませぬ」
「そなたの賭けに乗ってやろう」
成生がはっと頭を上げました。
「あいやすまぬ、夢じゃったな」
玄蕃頭様のいつもの、ニイっと人好きする破顔が見下ろしていました。
「そなた、これより夏を置いてひとりで上野へ帰れ。向島のおじじは可愛い孫姫を独り占めしたくて、邪魔な婆やをひとり追い返した旨岩之氶に伝えるが良い。いずれお祖父が満足したら夏は返すゆえ心配無用とな。
そなたは上野に戻り、屋敷のことを整えよ。……まだ時のあるうちにな」
「お言葉、ありがたく……」
「ただし、夏は養女にはせぬ」
厳と告げられた言葉に、成生のくぼんだ両目は、疼痛を堪えるかのように細められ、玄蕃様をお見上げしたのでした。
「ご無礼を。それは 」
………の、ゆえにございますか。
「つつしめ。成生」
「は」
その拒絶が答えである事を、老女は知っていました。
老女のその無礼を、けれど玄蕃頭様はたいへんお気に召されたご様子でした。
二人の老人の間で、何かが深く了承されたのでした。
「夢とは、分の悪い賭けじゃ。永井玄蕃頭のしごきは厳しいぞ、お夏が泣いて逃げ出したらお主の敗けじゃ」
「永井玄蕃頭相手に負ける勝負をもちかけるは、下の下策でござりましょう。夏様であればこその賭けでございます」
「言うたな。おぬしのような無礼者は、たいがい長生きするものぞ」
4
玄蕃様の言葉は、ある程度正鵠でした。
成生様はその後、約四年を上野永井邸に仕え、家内の差配を取り仕切りました。
病を圧していることなど全く気づかせぬ、終始厳然とした姿だったとお聞きしております。
永井家を辞し、宍戸の実家に戻って息を引き取るまで、たったのひと月足らずでした。
私がこのことを聞きましたのは、もっとずっと後の事。
老いた母・おしまの、昔語りのなかでのことでございました。
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