見出し画像

「晴れの日も雨の日も」#52 誠意

おチャラ気投稿の拙note#50の最後に誠意という言葉にぶつかった。誠意という言葉ですぐ思い出すのが、「北の国から’92巣立ち」で菅原文太が黒板五郎こと田中邦衛に「誠意って何かね」と問うシーンだ。有名な場面だから多くの方がご存知だろう。

純(吉岡秀隆)がトロ子(裕木奈江)を妊娠させてしまい、トロ子は一人で堕胎する。で、五郎さんが自分の畑でとれたカボチャを持ってトロ子の保護者である菅原文太に謝りに行く。その時に菅原文太が言ったセリフだ。
そして、「あんたは誠意のつもりかもしれんが、こっちの側からは誠意にとれん」という言葉が続く。

そう、誠意があるかどうかは、自分が決めるものじゃなく、相手が決めるものなのだ。なんぼ自分では誠意があるつもりでも、相手はそうは見てくれない、なんてことは日常ざらにある。

が、だからといって、こちらに本当のまごころがなければ、当然相手には何も伝わらない。
自分の中に真っ赤な血が噴き出すような赤心を持ち、それをオーラのように滲み出させて相手に伝える。こんなことが私の理想だ。
赤心を推して人の腹中に置く、という言葉はたぶんこういうことを言っているのだろう。
魂を外気にさらして生きていく、というカッコイイ言葉ももう長い間私の心の中にある。

また、自分の誠意が伝わらない時は、誠意の「見せ方」もあるかもしれないが、たぶんそんな簡単な話ではないことの方が多いだろう。やはり、その「誠意」がどこまでホンマモンなのか、ということが本質論だと思う。

このドラマでは、このあと五郎さんは家を建てるための木材を売り払って金を作り、それを菅原文太に届ける。で、文太さんはこの金をトロ子経由で純に返す。今度は文太さんも五郎さんの誠意を見て取ったのだ。

誠意があるというなら、一発で相手に伝わらなくとも、伝わるところまで深めて、熱量をあげて、大きくして、かつ伝わるまで何度でもやりきる、それこそが本当の混じりっ気のない誠意だ、ということをこのドラマは言っている。

いやー、これはなかなか大変だ。

私は、時折「オレはまっすぐのストレートしか投げない」という言い方をする。誠意が自分の看板のようなことを言っている訳だ。ま、確かに、誠意とか誠実ということを看板に掲げて正面突破を図るという信条・スタイルでやってきたつもりではある。

が、本当に純度100%の誠意を持っているのか、と言われると、思わず口ごもってしまう。五郎さんのような徹底して誠実な対応を最後の最後までやりきってきたかと言われると、ちょっと後ずさりしてしまう。
相手の前に自分の身をそのまま投げ出す、いささかも自己防衛をしない、ということが本当の誠意なのだろう。
簡単に使ってしまう言葉だが、マジメに考えると、実にオソロシイ言葉なのだと思う。

さて、ちょっと肩の力を抜いて、もう少し現実的に可能なレベルの「誠意」と私が学んでいるコーチングについて最後に少しふれたい。
学びの中で"コーチングスキル"という言葉がよく使われる。私はそれがあまり好きではない。
人と向き合い、人と何かを作り上げていくためにまず一番に必要なのは、誠意だと私は信じている。
もちろんいいコーチングをするために、「問い」を始めとするスキルを向上させることは必要だ。
が、冒頭に記載したような、赤心を自分の中に持ち、それが相手から感じ取れるようにすること。これこそが、相手が心を開いてくれるために必要で、そういう状態になれなかったら、いくらスキルがあっても何も始まらないではないか、と考えている。
相手のことに一生懸命になりすぎるとコーチングはうまくいかないということも言われる。言っている意味はわかる。だから私のコーチングは未熟なのかもしれない。が、私の心はこれにはなかなかagreeしない。
コーチング「スキル」ではなく「マインド」を活かした、私なりの価値の提供という道を最終的には求めていくことになりそうな気がしている。

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之
仕事のご連絡・その他ご相談等はこちらに→nagairb21@jcom.zaq.ne.jp

<予告>
#53 コミュニケーション・クリエイター
#54 どないやねん
#55 Facebookってどうなってんの?
#56 巡礼街道を歩く
#57 懺悔-30年間封印されてきた真実-

(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?