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「晴れの日も雨の日も」#10 学ぶとは

晴れの日も雨の日も。現役の時もシニアになっても。ずっと、学び実践して生きていく。さすがながいコーチ。えらい立派なこと言うねえ。あんたほんまにそんなことできてんの?いやいや、そうありたい、というお話です。


「学ぶ」については、私たちは子供のころから学校に通い、いろんなことを学んできました。たとえば私は最高学府たる大学まで行って、途中受験勉強も一生懸命やりました(実は私は勉強らしい勉強をしたのは、60年の人生のうち、これに該当する数年だけ)。私だけじゃなく多くの人がいわゆる国語算数理化社会のオベンキョウについては十分経験済みでしょう。
が、それは机の上での学問。
大人になって必要な「学び」は、もっとナマナマしいというか、
単なる知識をオツムに詰め込むだけではないというか、
深い気づきと連動して、自分の奥深くに格納されるというか、
そういうもののような気がします。

また、学ぶ<まなぶ>は「まねぶ」すなわち「真似る」から転じた言葉だということを聞いたことがあります。師匠や先生がお手本を見せてそれをまねて習得していく。会社で言えば上司のやり方を見ながら仕事を覚えていく。特に職人さんの世界でいう親分弟子の関係はそういう色彩が比較的強いのではないかと思います。
これの極端型である「オレの背中を見て覚えろ!」式は昭和の遺物の代表格でオススメできませんが、私はこの「真似る」を通じて「学ぶ」ということに思春期の頃の原体験があります。昭和式が問題なのは、上司の方がそういう乱暴もしくは押し付け的な姿勢でいることであり、学ぶ方にとっては「真似る」から入るというのは今も有効な手法のひとつではないかと思います。

実は私は幼稚園から小学校の頃は全然アカンタレでした。体も小さく運動も苦手で性分的にも奥手。ドリフターズの「8時だよ全員集合!」がめちゃめちゃ流行っていた頃です。年に何回かあるお楽しみ会でそのモノマネをやってクラス中の人気をかっさらっていくようないわばスーパースターの同級生もいました。その華やかな彼に比べて自分のしょうもないこと。いじけ気味に隅の方でおとなしくしていました。
で、中学に上がる時に、隣町のもっと下町っぽいところに転居。中学での同級生はさらにやんちゃ坊主だらけに。私は「困ったなあー」みたいな感じでさらに目立たないところに。

しかし神様は思いもかけない仕掛けをされました。そんなアカンタレがいっちょ前に同級生の女の子にをしたのです。相手はクラス一の人気者で私にはとびっきりの高値の花。つりあわないことは誰よりも自分が一番よくわかっている。でもだんだん「オレもこんなんじゃ全然あかんなー。両想いなんて厚かましいことは無理かもしれんけど、いつまでたっても“長井君って誰?そんな子おった?”みたいなことでどうするんや。この同級生たちとせめて同レべ/ちょいマイナスぐらいまでは持って行かんと話にならんゾ。」と思いはじめました。

邪心と下心は実にオソルベシ。これが「変わろう」という大きなエネルギーになりました。でもアカンタレでずっと通してきた子には何をどうしていいのか、何から始めれば自分の人間改造ができるのかさっぱりわからない。で、クラスの人気者の一挙手一投足を真似することから始めたのです。
たとえば、給食の時にヤツがまず牛乳から飲んだら自分もそうする。
ヤツが靴のかかとを踏みつぶしていたら自分もそうする。
かばんを右肩にかけるか左肩にかけるか見てマネする。
語尾に「○○し」と「し」をつけて話すと気づくと自分もやたら「し」を連発する、等々。
「しょうもなー」と笑うなかれ。そのうちマネもだんだん自分のものになってきました。いつも目の隅でヤツを追っかけていると、少しづつ&何となくヤツの思考パターンとか好みとかがわかるようになってきました。また、「なんや、所詮おなじ中学生やないか」ということにも気がついてきました。

このへんから自分を表現するというか、もうちょっと自分を前に押し出すことがだんだんできるようになってきました。自信もついてきました。真似ることが自分を変えることにつながる。形から入ることで実は学びが身につくことがある。
昔、安達祐実の「ガラスの仮面」というドラマがヒットしました。「さあ、マヤ。仮面をかぶるのよ」と言って安達祐実演じるマヤが舞台にあがるドラマです。ガラスの仮面でもかぶり続けていると、本当の顔と密着してくる。いつの間にか本当の顔のようになってしまうのです。

私の先ほどの青春ドラマについては、件の彼女とはもちろん単なる一方通行片思いで終わりました。彼女は私の想いには気付くこともなく今となってはどこにいるのやら。生きているのかどうかさえもわかりませんが、彼女は私の人生を変えてくれた大恩人の一人です。

と長々とセピア色の思い出話を綴ってきましたが、真似たくなるようなロールモデル、もっと言えば憧れの存在を見つける、徹底的にその人をまねる、というのは机上の勉強からは得られないとっても大事な人生の学びではないかと思います。そう言う人に出会えた人は幸せだと私は湯気が出るような実感を持って今筆を進めています。


学びにもう一つ大事なのが、謙虚さ、ということ。スラムダンクというバスケット界に燦然と輝く大漫画があります。バスケットに関わる人でこれを読んだことが無い人はモグリじゃないかというほどのビッグネーム。「人生で大事なことは全てスラムダンクから学んだ」なんていう人もいるぐらいです。
当然数々の名シーンがあるのですが、主人公の桜木花道が名将安西先生の下でシュート2万本に取組み、ジャンプシュートの基本を身に着けるシーンがあります。この練習に際し、シロートの桜木花道がむちゃくちゃなフォームでとんでもないシュートを打っている時に安西先生が一言。

下手糞の上級者への道のりは己が下手さを知りて一歩目」。

これぞ、学びの基本!私の座右の銘でもあります。いいプレーを素直に学ぶ姿勢。まさに学び方の原点だと思います。「オレはこれでええねん」などと我流に走るのは上達を妨げるだけ。カチンと来ても指導者の言うことを素直に謙虚に聞くことが学びに、そして成長につながっていきます。
「オレは下手糞なんだ」と思って、ひたむきに謙虚に素直に努力をする。いい気になって天狗にならない。
とっても大事なことだと思います。

翻って私のコーチングでの学び方。60年の積み重ねが「自分流」という変な垣根を作っていて、テキストに書いてあることでも「そんなんどうでもええやん」と勝手なことをしたがることがあります。長い間の習い性からするとそっちの方が座りがいいのでしょう。でも、それは学びを遅らせる元なのです。
謙虚に真っ白な心で。
60年でどんなことを成し遂げてきたか知らんけど、この道では駆け出しのシロート。「自分は何もわかっていない」というところにしっかり立って学んでいく必要があると常々自戒しているところです。

学ぶというのは言わずもがな深いテーマで、本当はまだまだいろんな切り口、掘り下げ方があるのですが、今回は私の思い出話で誌面を使いすぎたようです。切り口としては、学ぶことと実践すること、学んだことを本当に身に着けるとは、とっても大事な学ぶ人の主体性、学びは継続してこそ値打ちがあるということ、学びは人との交わりの中にある~ほぼ日の学校のことなどなど思うことはあるのですが、また別途の回にしたいと思います(まだまだ2回でも3回でも書けそうな)。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました♬

                          長井克之
                      nagairb21@jcom.zaq.ne.jp

<予告編(毎週土曜日投稿予定)>
#11 シニアになる-卒業について
#12 日常の中にオモロイを探して
#13 観察力:相手への興味・関心
#14 かっぺいものがたり
#15   2021年還暦の年を振り返って-Reborn-
(続く)

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